本講義を学習するにあたって
日本大学の現況
ここでは,これから日本大学史を学ぶにあたっての,基本的な知識として,「日本大学の現況」を簡単に説明します。
日本大学は,14学部に人文科学・社会科学・自然科学の広い領域にわたる学科を設置し,大学院も22研究科に及んでいます。
さらに,通信教育部・短期大学部に加えて,幼稚園から高等学校までの付属校に,専修学校も包括した教育機関です。以下順に説明します。
大学は,表記の14学部に第1部(昼間部)は,87の学科が設置されています。カッコ内は校舎の所在地です。
第2部(夜間部)は,かつて法学部・文理学部・経済学部・理工学部の各科に設けられていましたが,現在は法学部法律学科のみとなりました。
学部・学科について詳しく知りたい方は,日本大学ホームページから各学部ホームページにリンクして下さい。
通信教育部には,法学部の法律学科と政治経済学科,文理学部の文学専攻・哲学専攻・史学専攻,経済学部経済学科,商学部商業学科が置かれています。
学部には大学院の各研究科が併置されています。系列の学部を持たない独立大学院としては,グローバル・ビジネス研究科(千代田区九段南),
法科大学院である法務研究科(千代田区神田駿河台),通信制の総合社会情報研究科(所沢市)があります。
短期大学部は,三島キャンパスにビジネス教養学科・食物栄養学科,船橋キャンパスに建築・生活デザイン学科・ものづくり・サイエンス総合学科・生命・物質化学科,
湘南キャンパスに生物資源学科の6学科,卒業後に進む専攻科としては唯一,食物栄養専攻(三島キャンパス)が設けられています。
日本大学の名を冠する付属校は,学校法人日本大学の組織下にある「付属」(通称「正付属」)と,別法人の「特別付属」「準付属」に分かれています。
基本的に「付属」「特別付属」は「日本大学○○高等学校」,準付属は「○○日本大学高等学校」と,「日本大学」の名称が入る位置で区別がつきます。
法人管下の付属は,表記の高等学校11校(5校は中学校を併設)と幼稚園です。カッコ内は校舎の所在地です。
この中で,最初に設置されたのが,昭和2年(1927年)11月に認可を得た日本大学幼稚園です。また次の4校は,旧制の中等教育機関を前身校としています。
日本大学高等学校・中学校は旧制の日本大学第四中学校・商業学校(日本大学第四普通部),
日本大学習志野高等学校(昭和49年3月以前は,日本大学工業高等学校)は旧制の日本大学工業学校が前身です。
日本大学鶴ヶ丘高等学校の前身は,東京獣医畜産大学付属高等学校(旧制東京畜産工芸学校)です。昭和26年(1951年)に東京獣医畜産大学が,
日本大学と合併して農獣医学部となったため,同校の運営も引継がれ,日本大学の付属高校となりました。
日本大学豊山[ぶざん]高等学校・中学校の前身は,隣接する真義真言宗豊山派[しんぎしんごんしゅうぶざんは]の護国寺に関係する旧制の豊山中学校です。
戦後,豊山学園となって宗教法人から独立していた豊山高等学校・中学校の経営が,昭和27年に日本大学に移管されました。他の7校は,戦後の設置です。
特別付属は,普通部と呼ばれ戦前から付属校であった旧制の日本大学第一中学校・商業学校,第二中学校・商業学校,第三中学校・商業学校の後身である学校法人が運営している学校です。
表記の高等学校・中学校4校と小学校です。千葉日本大学の各校は,日本大学第一高等学校・中学校と同一法人の学校で,戦後に設置されました。
準付属は,表記の高等学校8校(4校は中学校を併設)と中学校・高等学校一貫教育の中等教育学校2校と幼稚園で,北は北海道から南は九州にまで広がっています。
これらの学校の多くは,昭和30年代後半から40年代にかけての,大学の拡充期に準付属となりました。
医歯系の学部には付属病院があり,看護師・歯科衛生士・歯科技工士などを養成するための,表記の各種専修学校が併設されています。
教職員数は,平成25年(2013)5月1日現在,教員数は3,666人,職員数は3,764人で,職員数のうち,病院関係者は2,203人です。
学生数は学部は67,921人,大学院は3.208人,通信教育部6,522人,短期大学部1,149人で,計78,800人です。
専修学校は599人,付属校(正付属)の生徒数は,幼稚園の園児を含めて17,377人で,合計すると10万人近くにもなる,日本最大の大学です。
留学生は,36カ国1地域から1,385人(平成24年5月1日現在)が在籍しています。
参考として,早稲田大学は,平成25年5月1日現在,53,574人(付属校等を合わせると56,749人),国立最大の東京大学は25年5月1日現在で,27,165人です。
そして,校友の総数は,平成21年3月で100万人に達し,25年3月現在は1,079,563人です。その他,校有地は演習林を含めて31,317,538㎡で,
東京ドーム約700個分にあたります。蔵書数は5,764,709冊(内,付属校は94,515冊)です。
また,学術交流を結んでいる海外の大学等は,平成25年3月現在で,30か国1地域で135大学に及んでいます。
日本大学の徽章(校章)は,日本法律学校から日本大学に改称した直後の明治36(1903)年8月,制服・制帽と共に制定されました。デザインは,「大学」の文字の下に日本の国花である桜を配置しています。
大学令による大学となった2年後の,大正11(1922)年3月に校旗が制定されています。
中央には徽章と同様のデザインが刺繍され,色は前年の秋頃に「紅[こう]」と定めることが,発表されました。(『日本大学新聞』創刊号,大正10年10月15日)。
スクールカラーの選定は,アメリカ留学経験のある川口義久[かわぐち よしひさ]学監が強く主張し,実現したものでした(詳細は,コラム参照)。
また正月の「箱根駅伝」の襷や応援旗等,運動競技で目にする「ピンク(桜色)」については諸説ありますが,
『日本大学九十年史』には,校旗制定直前の大正11年1月に,日本大学が「箱根駅伝」に初参加した際に,すでに「赤」を使用している大学があったために,
運営側から似たような「紅」では紛らわしいと要請され,「ピンク」にしたと記されており,現在ではこのエピソードが通説とされています。
昭和11(1936)年3月27日には,普通部との区別もあって,校旗を大学旗と称することにしました。同時に,表記のように各科にシンボルカラーを制定しました。
そのため各科旗(後の学部旗)はそれぞれの色に合わせて,染め直し等して作り直すことになり,5月15日に本部会議室において,山岡萬之助総長より各科長に授与されました。
昭和33年12月,学部旗の色別を廃止して,学部旗も大学旗と同じ色に統一することになりました。
この時あらためて色は「緋色」と定められましたが,その後作り直しをせずに,現在も改定以前の,大学旗と色が異なった旗を使用している学部もあります。
大正9(1920)年5月15日,大学昇格祝賀会の前夜,司法省参事官で日本大学講師を務める,大森洪太[おおもり こうた](後に司法次官,東京控訴院長)の自宅に学生委員数名が押しかけ,
翌日の式典で歌う校歌と祝賀の歌をすぐに作ってほしいと懇願され,作詞をさせられました。
そして曲は,大森が知人の立松懐清[たてまつ かいせい]東京地方裁判所判事の夫人で,ソプラノ歌手の房子[ふさこ]夫人に頼み,彼女と音楽学校の先生とが一晩で作曲しました(詳細は,コラム参照)。
この時「昇格祝賀の歌」と共に作られたのが,日本大学最初の校歌となりました。
しかし急あつらえで,正式な手続きを踏んだものではありませんでした。そこで大正11年になるとあらためて校歌制定の声があがり,大正12年2月に,作詞を一般学生から公募することが発表されました。
多数の応募がありましたが,3名が当選しました。そして3つを合作して,甲乙2案の歌詞を作り,その1つを選びました。
曲は,府立第一中学校(都立日比谷高等学校の前身)教諭で,童謡『どんぐりころころ』などの作曲等で知られる梁田貞〔やなだ ただし〕に依頼して,4月に完成しました。
2代目の校歌制定の後,関東大震災が起き,本学はもちろん,東京・横浜等は壊滅的な打撃を受けました。その復興と発展の時代背景に,校歌の内容が合わなくなっていました。
そこで,詩は前校歌の精神を受け継ぎつつ斬新さを加え,曲は明るく,軽快な旋律とした,表記の新校歌が,昭和4(1929)年5月に発表されました。
作詞は,早稲田大学を始め多くの旧制中学校の校歌を手がけている相馬御風[そうま ぎょふう]。
作曲は,童謡『赤とんぼ』を始め,オペラや交響曲も手がけている山田耕筰[やまだ こうさく]でした。この3代目の校歌が,現在歌われている校歌です。
なお戦時中は,「正義と自由」の部分が「八紘一宇[はっこういちう]」に変えられていました。
スクールカラーの制定
日大校歌と私