我、プロとして

Vol.3 和田泰治 氏【中編】
ドーバー洋酒貿易株式会社/軽井沢ブルワリー株式会社代表取締役会長(1961年商学部商業学科卒)

卒業生
2020年12月18日

自分には作れない。でも、菓子職人たちに付き合って生きることはできる

「僕はね『ファーストペンギン』(笑)」。以前、あるビール会社の社長が持ち出した話が、とてもしっくりきた。「南極の氷河からペンギンたちが飛び降りる。高くて崖っぷちの氷河は命の危険が伴う。そこで最初に飛び込むペンギン、それをファーストペンギンっていって、非常に賞賛されるらしい。何事も最初というのは、確かに勇気がいることかもしれません」。ニッチな製菓用洋酒の市場で、孤軍奮闘してきた自分の姿が、極寒の地で海に飛び込むペンギンと重なった。「運が良いって言われますが、運なんていうのは、みんなあるんです。僕にあったのは、時代と経済の変化する流れの中で生きなきゃいけない、頑張らなきゃ、っていう切実な気持ちだけです」。

サラリーマンから事業家へ

念願叶って入社すると、営業マンとして、持ち前の商才を生かし成績を上げた。

新人でも洋酒の展示会に行っては、先輩社員を前に、一番の売上をみせた。そのうち仕事を任され、期待されると、人一倍働いた。

「この会社に一生を懸けて、ここで骨を埋めようと、本気で思っていました」

ところが。入社9年目の秋、突如、会社が倒産した。

「僕は営業だったから、あまり会社の経営状態は分からなかった。でも、あるとき、僕が『製菓(菓子やケーキ)用の洋酒をやりたい』と社内で奔走していると、総務の課長さんから『和田さんね、変な話だけど、会社の金で独立するの?』って言われた。驚いてね。その頃はすでに会社が潰れかかっていたから、皆独立したい、転職したいんですよ。そのとき初めて『あっ、この会社にはもういられない』って思った。だってそんな邪(よこしま)な気持ちは無かったんでね。でも、会社はそこまで追い込まれてるんだと思ってね」

31歳で転職の道を選ばず、独立した。実業家だった父の勧めもあった。実際に、独立してみて、最初は何をして良いのかも分からなかったが、自分が心動かされた瞬間だけは忘れていなかった。

まだ会社が倒産する前、和田さんは、ある洋菓子コンクールの会場にいた。

そこで、自らの作品づくりに命懸けで挑む菓子職人の世界に触れ、衝撃を受けた。

サラリーマンである自分とは、まったくの別世界。見習いから始めて、ここまで辿り着いた人たちの集大成。その真剣な目つき、目の鋭さが際立っていた。

「あんな世界を見たら、狂っちゃいますよね(笑)。自分には(洋菓子を)作れない。でも、あの人たち(菓子職人)に付き合って生きることはできる」

そう思って、自分の会社「和田商事(株)」で製菓用洋酒を扱うことに決めた。決めたは良いが、何からはじめれば良いのか分からない。営業だった自分の信念を頼りに、とにかく人の3倍、4倍働いた。

「今でも社員には言いますよ。『訪問に勝る営業なし』とね」

サムライの国だからこそ

現在、社名も「ドーバー洋酒貿易㈱」と変え、直輸入洋酒を10か国33社より約250種類、パティシエのこだわりに応える自社製造のドーバーの洋酒が約250種類の合わせて500種類にのぼる品揃えは、創業から51年間、訪問し続け、顧客の声を拾ってきた証だ。

これだけの製菓用洋酒を揃える会社は、世界でも、和田さんの会社だけだ。

濃縮果汁のノンアルコール飲料と、和酒

洋酒だけでなく和酒も開発(右・紫蘇)。濃縮果汁のノンアルコールも(左の3本)

「僕が『異端児だ』っていうのは、製菓用洋酒っていう、他社がやっていない市場でやってきたことがありますね。大手酒造メーカーも手を出さないくらいニッチだったし、誰も成功するとは思っていなかった」

500種類の製品を扱うが過剰在庫とは考えない。

「パティシェが希望する洋酒は何でもある。洋酒のことならばドーバーに聞いてください、何でも応えます。
洋菓子技術の向上・人材育成などの業界への貢献もドーバーの大切な仕事だ。東西に講習会場を完備しており、東京本社の会場は予約が絶えない。2014年には、国際的なコンクールや試作を行うことができる会場をANNEXビルに完備した。イタリアのメーカーとの提携コンクールも毎年行っている」

しかし、和田さんにとっては、畏敬の念を持った菓子職人の人たちと仕事ができることが、生き甲斐だった。

20年くらい前には、こんなこともあった。

「フランスに1社だけ、ウチのような製菓用洋酒専門の会社があった。それがシラク大統領(任期=1995年~2007年)のアドバイザーをすると、そこの社長が会社を辞めちゃったんですよ。200年も続いた会社だった。その時、私がその社長から言われたのは、『サムライの国、日本で(自分たちのやってきたことを)続けて欲しい』ということ。」

そのとき、和田さんは「確かに(自分たちなら)できるかも知れない」と思った。

「なぜなら、日本人は侍が持つ刀ひとつ取っても、拵(こしら)えから、鍔(つば)から、刀身はもちろんのこと、全部魂込めて作る。ただ殺傷するためだけの武器を芸術品の域にまで昇華させて、際限がない。どこまででも高めていくんです」

和田さんが陶酔した菓子職人も同じ。これで良いという限界がない。甘くて美味しいのは当たり前。その当たり前をどこまでも追求するのが、菓子職人たちだった。

「でもね」

独特の世界だけに、身内にも理解してもらえないこともあった。

独立したばかりの頃、父親が高崎から上京して来た。

「僕がラム酒を抱えて『今日は千葉の市川のお菓子屋さんに行って、半日いない』って言うと、『そのお菓子屋さんは、(ラム酒)一本をどれくらいで使うんだ?』と聞くから『1、2か月くらいかな』と返答すると、親父が愕然としちゃったんですよね(笑)」

明治生まれで、大正、昭和と生き抜き、地元・高崎にデパートビルを建てたほどの事業家だった父にしてみると、和田さんのやろうとしていたビジネスは理解できなかった。

「確かに親父からしてみたら、スケールが違いましたから、その一件以来、もう相手にしてくれない。逆に『お前、仕事っていうのは頑張れば良いってもんじゃない』と諭されましたよ(笑)」

名脇役が挑んだ主役への道

それでも、和田さんの情熱は、揺らがなかった。大手が振り向かない、一滴、二滴の市場を、少しずつ拡げていった。今では、国内の洋菓子店の8割以上の店が、ドーバー洋酒貿易㈱の製菓用洋酒を使っている。

「僕は一滴、二滴でも毎日出ていればいいんです。洋菓子店は店のシャッターを開けるたびにケーキを作りますから」

インタビュー中の和田さん

千里の道も一歩より。圧倒的なシェアを誇る今も変わらない

今なら天国の父上も納得してくれるのではないだろうか。

「父には本当に感謝しています。独立してまだ先が見えないときに、父が厚木に土地を買ってくれたおかげで、のちに工場を建て、製菓用洋酒製造ができて、今があります。でも、(事業の成功を)生きている内に見せてあげたかった。あの世に行ってから懺悔します(笑)」

菓子職人の世界に憧れ、寄り添ってきた半世紀。

国内大手洋菓子メーカーから、コンビニエンスストア、高級洋菓子店、街の洋菓子店に至るまで、隠し味としての洋酒を扱う「ドーバー」の名は、業界では知らない者はいないところまできた。

「あくまで製菓用洋酒は『縁の下の力持ち』です」

自らその役を買って出たことに後悔はない。しかし、その想いとは裏腹に、いつしか消費者から直接評価がもらえるリテール市場で“自分のブランドを造りたい”という想いも膨らんできた。

では、何を作るか。これまで洋酒を扱ってきた和田さんは、考えた。

「ワインは僕には凝り過ぎてみえた。ビールなら大手4社はあったけども、地ビールであれば面白い。ちょうど1994年に酒税法が改正されてから、規制緩和により全国に350社を超える地ビールメーカーが誕生したんです。その頃から『いつかビールを造りたい』という想いが膨らんできた」

それから和田さんがビールを造るまでに、20年の歳月を要した。

<プロフィール>
和田泰冶(わだ・やすはる)

1938年5月19日生まれ。1961年商学部商業学科卒。群馬県高崎市出身。
小学校1年生で終戦を迎え、父親の家業を手伝うことで商人としての才覚を養う。高校は県立高崎商業に進学。剣道を始め、全国大会個人戦で優勝。一般入試で本学商学部に入学し、卒業後の1961年、東証二部上場のモロゾフ酒造(株)に入社。突然の会社倒産により独立。
1969年和田商事(株)(のちのドーバー洋酒貿易(株))を設立。製菓用洋酒という新たな市場をつくる。2011年にはクラフトビール市場に参入し、2013年「THE軽井沢ビール」販売開始。現在では、製菓用洋酒500種類以上、クラフトビール常時10種類以上を扱う。