我、プロとして

Vol.5 佐藤公一郎 氏【中編】
美濃焼職人(伝統工芸士)(1977年文理学部史学科卒)

卒業生
2020年12月24日

ボート部が厳しいとは聞いていました(中略)
それは冗談だと思っていましたよ(笑)

美濃の大自然に囲まれて育った小中高校生時代は、家業には目も向けず、遊びの釣りと、部活動のボートに熱中したという佐藤さん。ボートではアスリートとしての才能が評価され、大学進学のきっかけに。そして、青春時代を過ごした東京での話にも花が咲いた。

ボート競技との出会い

こちら54年前のシロモノの石

物持ちの良さもここまできたら才能だ。拾ったのが小学校5年生というから、こちら54年前のシロモノ

佐藤さん自身も、子供の頃から、ものづくりが好きだった。授業の中でも、工作の時間が待ち遠しかった。

「忘れもしないのが、小学校5年生のとき、社会の時間に原始時代って言葉が出てきて、その頃は石器を使って自給自足をしていたって書いてあったのをみて、直ぐに興味を持った。学校帰りに矢尻になりそうな石はないかと探して、家に持って帰って、金づちでコンコンやりながら作りましたよ。それまだありますから、持ってきますね」

そう言って、佐藤さんは、当時のチョコレートの缶に入った石を見せてくれた。

小学校低学年の頃は焼き物をする父親の仕事場にもよく行って、粘土をこねたり、絵を描いて遊んでいた。

しかし、中学に入ると、徐々に足が遠き、高校に入ると一度も行くことは無かったそうだ。

熱中したのは、部活で始めたボート。

のちに、本学に入学するきっかけにもなった“一芸”だ。

「岐阜県は高校を中心にボートが盛んなんです。私の母校・岐阜県立加茂高校も強豪校で、今年も男子はインターハイの代替大会で優勝しました。僕が3年生のときにも、インターハイ、国体には出場しました。地方大会では、表彰台にも上がってたんで、スカウトの目に止まったのかもしれません」

その後、本学から推薦オファーがあり、佐藤さんは、東京に出ることに決めた。

「日大のボート部が厳しいとは聞いてました。進学が決まった後、英語の先生から『佐藤、日大のボート部はなぁ、(合宿所から)夜逃げする学生がおるでなぁ』って言うんですよ(笑)。でも、それは冗談だと思っていましたよ」

時間との闘いの日々

大学時代、ボート部の厳しさは他大学を凌駕した練習量だったと話す佐藤氏

大学時代、ボート部の厳しさは他大学を凌駕した練習量だった

しかし、現実は甘くはなかった。

「行ったら、先生の言ったことが本当だった(笑)。もうね、早いと3日くらい、大体、1週間から10日経ったら、朝起きるといないやつがいるんですよ」

当時から埼玉県戸田市戸田公園にあったボート部の学生寮に、4年生の最後まで残ったのは11人中7人。一つ上の代に至っては2人しか残らなかった。

「結局、自分が思っていたのと現実の差が激し過ぎたんでしょうね(笑)。同じことやったら、今の学生なら100%いなくなると思います(笑)」

逃げ出す気持ちも良く分かった。それでも、残ったのは意地でしかなかった。絶対に4年間やり切ってみせる、そう誓って、毎日、東京杉並区下高井戸まで1時間半をかけて通った。

起床は毎朝5時。起きてすぐに寮の前の広場で体操してからトレーニング。終わってすぐに授業に向かっても間に合うのは2時限目から。そこから3、4時限と出席したら、とんぼ返りで戸田公園に帰って、トレーニング。

毎日が時間との戦いだっだが、夏休みと春休みの、普通の大学生なら飛んで喜ぶこの期間が、さらにきつかったそうだ。

4年間、埼玉・戸田の合宿所から通った世田谷区桜上水にある本学文理学部

4年間、埼玉・戸田の合宿所から通った世田谷区桜上水にある本学文理学部

「戸田には各大学の合宿所がありましたから、どこがどれくらい練習しているかは分かるんです。授業がない休暇期間は、朝5時から、夕方の7時まで3部練習。中でも日大と早稲田が、練習時間が長かった。合宿期間は10カ月半で日大が一番でしたね」

高校時代は、練習をやってもせいぜい半日。苦しいよりも楽しい方が優っていた。一変、大学時代は、とにかく我慢。耐えることを覚えた。

「こういう世界があるんだって。そして、その世界に自分がどっぷり浸かっていて。だから、そこから逃げ出すのは悔しい」

でも、意地だけでは4年間続かない。見出した楽しみは、意外にも銀幕の世界だった。

4年間で映画400本超

佐藤さんが上京した昭和48年当時は、東京には安い映画館が沢山あったそうだ。

「元々映画は好きだったうえに、旧作を上映する名画座なんかだと二本立てで150円だった」

喫茶店で珈琲が一杯150円、定食が250~300円の時代だ。確かに安いが、それにしても。

「1年生の時に観た映画の本数が100本を超えてたんですよ(笑)。それで、『よし!このペースで4年間観に行こう!』そう思って観た映画のことをノートに書き留めました」

いつ、どこで、タイトル、監督名、主演の俳優、音楽や気に入れば作曲者の名前まで、できる限り記した。卒業する頃には、計画通り400本を超えた。

戦国時代末期を舞台にした大作「七人の侍」(東宝)のポスター

戦国時代末期を舞台にした大作「七人の侍」(東宝)

「その中でも、もし離島に一本だけ持っていけるとしたなら、迷わず黒澤明の『七人の侍』を上げますね。初めて観たのは中学のとき。大学で上京したときに、また再編集して長尺にしたのを上映していたので、観に行きました」

好きだったボートを続けるための“燃料”にもなった映画も、“ものづくり”という点では、人類が生み出した中でも類稀なる創作物だ。制作者に対するリスペクトは、そのまま佐藤さんの“ものづくり”への探求心と重なった。

それから半世紀近く。映画の料金は、1本でも10倍以上となり、時代の移り変わりとともに、観られる映画も、それを観る映画館も変わっていった。

「『七人の侍』は、今はなくなったテアトル東京っていう日本橋の映画館で観たんです。僕もこの15年くらい自分の焼き物を持って東京に行って展示会をやっとるんで、毎年、行っていますが、かなり変わりましたね、日本橋あたりも」

それでも名作は、必ず後世まで残る。佐藤さんはそう言いたかったに違いない。選り優れた、作品は、時代を超えて賞賛されるべきものだからこそ。

(後編に続く)

<プロフィール>
佐藤公一郎(さとう・こういちろう)

1955年3月24日、岐阜県可児市生まれ。1977年文理学部史学科卒。
本学卒業後、現セラミックス研究所で研修生として2年間基礎を学び、家業である「佐藤陶藝」手伝い始める。美濃焼の中でも、志野焼、黄瀬戸を主に創作。
1990年代中盤からは、求められて地元小学校にて美濃焼の文化・創作の講演活動を続け、2005年には「美濃焼伝統工芸士」として経済産業大臣認定を受けた。
毎年、東京・青山にて個展も開催。大好きな鮎の友釣りは生活の一部。