我、プロとして

Vol.9 増田成幸 氏【前編】プロロードレーサー (2008年理工学部航空宇宙工学科卒)

卒業生
2021年02月05日

航空研究会だから熱い気持ちで青春を燃やすことができた

2020年11月4日。(公財)日本自転車競技連盟は東京五輪のロードレース代表を発表した中に、増田成幸の名があった。新型コロナウイルスの影響により、代表選考で崖っぷちに立たされながら、最後のチャンスで見事に代表権の座を勝ち取ったのだ。前編では『不死鳥』と称される彼と自転車との出合い、人力飛行機のパイロットとして活躍した大学時代を紹介しよう。

ロードレースとの出合い

高校時代を振り返る増田選手

高校時代を振り返る増田選手

取材を終えてすぐ、『波乱万丈』『ドラマチック』といった言葉が筆者の頭に浮かんだ。「増田成幸の自転車人生には人々を魅了するストーリーが詰まっている」と断言しても、異論を唱える者は少ないのではないだろうか。

彼とロードレースとの出合いはテレビ番組だった。

「ツール・ド・フランス総集編を観て、アルプスの山々やピレネー山脈などを自転車で越えるレースがあることを知りました。おそらく高校1年のときだったと思います。当時は自転車競技というと競輪ぐらいしか思いつかなかったのですが、自分もやってみたいと胸を熱くしました」

高校2年の春に初めてロードバイクを購入し、所属していた軟式テニス部を退部。しかし、彼の通う東北学院高には自転車競技部はなかった。部の設立を学校に訴えたが、その願いは叶わず、サイクルショップのチームで増田の自転車人生はスタートした。

そこで出会ったのが佐藤正博氏だ。

「仙台に自転車部のある高校は少なかったのですが、サイクルショップで当時仙台商業高の自転車部の顧問を務めていた佐藤先生と出会うことができました。『1人でやっているならうちに来てもいいよ』と仰ってくださって、夏休みの練習に参加したり、機材を貸してもらったり、同世代の選手とともにレースに連れて行ってもらう機会を得ることができました」

練習を重ねるごとに増田の心にはインターハイに出場したいという思いが募っていった。自分の力を発揮したい、同年代の選手たちと勝負をしたいと考えるのは当然の願いだが、彼の通う高校に自転車部はない。

そこで増田は自らの出場を認めてもらえるよう、高体連へ電話を掛ける。そしてインターハイ予選となる県大会の出場権を勝ち取った。

「最後の周に落車に巻き込まれ、車輪が外れる転倒をしたのですが、自分で車輪をはめ直して、なんとかゴールしました。結果は8位で、東北大会に進める順位だったのですが、仮に好成績を収めても次の東北大会には進めないという条件で出場許可をいただいていたので、これが高校で最初で最後の大会でした」

こうして高校での自転車競技は幕を閉じた。

しかし目標だった大会出場を果たしたことで、自転車競技への思いは成仏したと増田は当時を振り返る。

そして翌年、エンジニアになるという新たな夢を抱き、本学理工学部へ進学する。上京する際、彼が情熱を注いだロードバイクは実家に置いたままだった。

人力飛行機に捧げた青春

大学進学に際して、増田は一つの目標を掲げた。それは何か熱中できるものを勉強以外で見つけるということだ。結果、航空研究会でその思いを遂げることとなる。

鳥人間コンテストに出場する航空研究会は学部内外で有名なサークルだ。増田もその存在を入学前から知っていたが、入会の決め手となったのは人力飛行機と懸命に向き合う先輩たちの姿だった。卒業までに半数以上が辞めてしまう理工学部で一番厳しいサークルというのも増田には好印象だったようだ。

「情熱を注ぐには最適だと考えました。実際に活動は大変で、夜遅くまで機体を制作するのは日常茶飯事でしたし、学業との両立は難しかったですが、本当に充実した時間を過ごすことができました」

大学3年の鳥人間コンテストの出場に向けて、1年の冬にパイロットが決定する。体力に自信のある増田は立候補し、見事パイロットに選ばれた。そして実家で眠る愛車が再び彼の元に置かれることになる。

「パイロットのトレーニングはロードワーク、部室にある人力飛行機用のリカンベントのエアロバイクが主でした。平日はトレーニング終了後に機体の制作をし、学校が休みのときには先輩パイロットや後輩パイロットとロードレースの大会にも出場しました」

2年生の夏に一つ上の学年が引退し、そこから自分たちの代の人力飛行機制作に突入する。1年という制作期間を経て鳥人間コンテストに挑むのだが、増田が3年生の大会は台風の影響で中止になってしまった。

青春の全てを捧げた人力飛行機が日の目を見ずに無傷の状態で戻ってきたのだ。その無念さは容易に想像することができる。

そこで当時の顧問は彼らに新たな挑戦の機会を作った。それが駿河湾での人力航空機日本記録への挑戦だ。

日本記録達成を報じる当時の日大新聞

日本記録達成を報じる当時の日大新聞

航空研究会で得た一生の宝

成せば成るのサイン色紙とともに、増田選手

成せば成るのサイン色紙とともに

2005年8月6日。日本記録に挑戦したのは増田が大学4年のことだ。

彼の体に合わせて作られた日大式NM・03型メーヴェ21号は海上を突き進む。蒸し風呂と化した過酷なコックピットで増田は懸命にペダルを漕ぎ続けた。

1時間48分12秒に及んだ飛行時間、直線距離で49.172kmに達するビッグフライトは、今なお破られることのない日本記録となった。

「記録を達成したときは、航空研究会の全員が『これで死んでもいい! 成仏できる!』という気持ちで一つになりました。あれだけ熱い気持ちで青春を燃やすことができたのは、日大理工学部で航空研究会に入ったからです。大学時代に学んだことはたくさんありますが、苦楽を共にできた友だちと巡り会わせてもらったことに本当に感謝しています。たくさんの困難を一緒に乗り越えてくれたサークルの仲間は僕の一生の宝です」

真剣に取り組むことの大切さ、あきらめない心を学んだ航空研究会での経験は、その後の競技人生にも大きく生きている。不死鳥と称される増田の不屈の精神は大学時代に養われたと言っても過言ではない。

そして一度成仏したはずのプロロードレーサーへの思いがパイロットの経験を経て再燃するのだが、それは後編で語ることにしよう。

<プロフィール>
増田成幸(ますだ・なりゆき)

1983年10月23日生まれ。2008年理工学部航空宇宙工学科卒。宮城県出身。
自転車競技部のない東北学院高で自転車競技を始める。本学在学中は航空研究会に所属し、人力飛行機のパイロットとして日本記録樹立に貢献した。
在学中の06年よりチームミヤタでプロロードレーサーとしてのキャリアをスタート。度重なるケガや17年に発症したバセドウ病に悩まされるが、その度に不屈の精神で復帰し、数々のタイトルを獲得したことから不死鳥と称される。
現在は宇都宮ブリッツェンでキャプテンとして活躍。21年に開催される東京五輪代表に選出された。