我、プロとして

Vol.18 岡崎正信 氏【前編】
株式会社オガール 代表取締役(1995年理工学部土木工学科卒)

卒業生
2021年06月29日

まちづくりに終わりはなく、成功もない

岩手県のほぼ中央に位置する紫波町は「オガールプロジェクト」でまちづくりを展開し、全国から注目を集めている。その中心的役割を担うのが岡崎正信氏だ。彼が手掛けたオガールは視察を含め、全国から100万人が訪れるようになったが、今なお町は成長を続けている。前編ではオガールプロジェクトと幼少期から高校までの岡崎氏の歩みを紹介する。

オガールプロジェクト

奥羽山脈と北上山地に挟まれ、中央に北上川が流れる自然豊かな紫波町。基幹産業は農業で、もち米やフルーツの生産などが盛んなこの土地に、約3万3000人が暮らしている。

その紫波町が全国から大きな注目を集める要因となったのが「オガールプロジェクト」だ。
過度に国の補助金に頼らない公民連携の同プロジェクトは、新たな都市と農村の結びつきを目指しており、岡崎正信氏はその企画立案から携わり、中心人物として現在も活躍している。

「オガール」は、成長を意味する紫波の方言「おがる」と、フランス語で駅を意味する「Gare(ガール)」を組み合わせた造語で、このエリアを出発点に町が持続的に成長していくという願いが込められている。

「父が亡くなり、2002年に地元に戻って実家の建設会社を継いだのですが、大不況に見舞われ、生き延びるためには、なにか新しい事業が必要でした。地元に活気がなければ建設業は成り立たないのですが、それには程遠い状況だったので、町を元気にしようと考えたのです」

1998年、町は再開発に向けて紫波中央駅前の土地を28億5000万円で取得したのだが、税収減などが原因で再開発事業は頓挫。10.7ヘクタールという広大な土地は10年以上「日本一高い雪捨て場」と化していたのだが、その状況を打破したのが岡崎氏だ。

本学卒業後に地域振興整備公団(現・都市再生機構)に勤務し、建設省(現・国土交通省)都市局都市政策課に出向した経験を持つ岡崎氏は、紫波町のために奔走。その結果、2009年2月に「紫波町公民連携基本計画」が策定され、同年6月に官民連携によるまちづくり会社「オガール紫波」の設立に至る。

そして2012年に図書館や地元農業が出品する産直マルシェ、カフェなどの複合施設「オガールプラザ」をオープン、2014年にはバレー専用体育館やビジネスホテルが入る「オガールベース」をスタート、2015年にエコ住宅街「オガールタウン」の分譲を開始させた。さらに同年、敷地内に町役場の新庁舎を開庁するなど、かつて雪捨て場と揶揄された紫波中央駅前は、オガールが誇る施設と住宅街でにぎわい、コロナ禍以前には視察も含めて約100万人が訪れる町へと生まれ変わったのだ。

「採算性や効率化だけでなく、循環型社会に向けたさまざまな工夫を取り入れたことで、必要以上に国からの補助金に頼ることなく、ここまで成長できました。多くの方々にオガールへ来ていただけているのは、ここが消費目的の施設ではなく、使いやすく集まりたいと思える施設だからでしょう。ただ、まちづくりに終わりはなく、成功もないと僕は考えていて、常にトライ&エラーを続けていかなければいけません。結果的にクリエイティブなことが生まれたため、現在は評価をしていただいていますが、世の中の変化に対応しながら、持続的な成長をするためには人材育成が欠かせないでしょう」

現在、紫波町に新しい学校を作るプロジェクトが進行している。紫波町の持続的な成長のための学校設立は岡崎氏の悲願と言っても過言ではないのだが、それについては後編で紹介させていただこう。

父との約束

オガールのある紫波町は岡崎氏の故郷だ。
7歳までは祖母や親戚と四世帯・17人で暮らしていたという。

「両親はサラリーマンでしたが、家は農家だったので牛への餌やりは僕の仕事でした。他にも窯で米を炊いていたので、巻き割りも担当していました。ただそれ以外はなんてことのない普通の少年でしたね」

中学に進学し、岡崎氏はバレーボールを始める。その際に父から約束を求められた。

「やりことだけをやっていたらバカな人間になる。だからやりたくないことも一生懸命頑張り、それは自分で決めろと言われました。そして勉強をおろそかにしないことを父と約束しました」

一家の絶対的存在である厳格な父との会話は敬語だった。約束を破ることがあれば、殴られることもあったそうだ。

オガールプラザ内にある図書館

オガールプラザ内にある図書館

父との約束を守り勉強に取り組んだ岡崎氏は、中学3年時に県内随一の進学校を目指せる学力を有していた。彼も周囲の人間も進学先はその高校だと考えていたが、高校入試まであと数カ月という時期に希望する進路が変わった。

「バレーボールで県選抜に選ばれ、中学3年の12月に全国大会を経験したのです。そしてもっと高いレベルでバレーをしたいと考え、父へ盛岡南高に進学したいと伝えました。その進学校とは学力差がかなりあるので、高校の勉強で常にトップの成績を収めることを条件に、父は僕が希望する進学先を認めてくれました」

息子を子ども扱いせず、大人な対応する父のおかげで、成すべきことを自ら考える癖がついた。そして心から尊敬できる父の教えによって、その後の彼の人生は華やかに彩られていくのである。

位高ければ務め多し

高校時代を懐かしく振り返る岡崎氏

高校時代を懐かしく振り返る岡崎氏

高校に入学した岡崎氏は、それまで以上にスポーツと勉強に力を入れた。
バレーボールでは国体も含めて全国大会に5回出場。勉強は、ほぼオール5という成績を3年間収めた。

部活動では部長を任された。
全国で勝つことを目標にした選手たちの個性は強く、部員同士の軋轢が生まれることも少なくなかった。そんななか、岡崎氏は部員全員と良好な関係を築けていたそうだ。全部員と対話を通して絆を深めることでチームをまとめ、プレーでもチームを引っ張った。

「幼いころから自分の意見を伝えること、相手の意見をその人が理解できていないところまで解釈を広げるということに長けていたのですが、部長職を通してその力が磨かれたと思います。相手の考える真意をその場で指摘はせず、相手へのリスペクトを欠かさずにユーモアを持ち、先回りして対応することで、みんなの信頼を得ることができました。『位高ければ務め多し』という言葉がありますが、責任ある仕事を任されたことで、さまざまな経験を積めたことはありがたかったですね」

高校在学中、ある先生が「バカは一生懸命やるな」と言ったことをよく覚えている。さらに「やる気のある無能が、チームをひいては世の中を悪くする」と続けたそうだ。これは岡崎氏にとって腑に落ちる言葉だった。

「その言葉の真意は、そのような人たちは全てを頑張るのではなく、活躍できる場を見極めて頑張れということだと解釈しました。それからはチームにとってプラスになるような役割を部員に与えることを意識しましたね。表現としては褒められた言葉ではないですし、今のご時世では問題になるかもしれません。それでも集団でことを成す場合、割り切りはどうしたって必要だと僕は今でも考えていますし、多くの方が納得できる考えだとも思っています」

バレーボールを通してさまざまな経験を積んだ岡崎氏だが、彼の競技人生は高校で幕を閉じる。高校3年時に大ケガを負い、第一線から退かざるを得なかったのだ。

そんな彼が進学先として選択したのは、父の出身校である日本大学理工学部土木工学科だった。

<プロフィール>
岡崎正信(おかざき・まさのぶ)

1972年12月26日生まれ。1995年理工学部土木工学科卒。岩手県出身。本学卒業後に地域振興整備公団(現・都市再生機構)へ入団。東京本部、建設省(現・国土交通省)都市局都市政策課、北海道支部などで地域再生業務に従事する。
2002年に家業である建設会社を継ぐために帰郷。故郷の紫波町で企画立案から携わった「オガールプロジェクト」は過度に国の補助金に頼らない公民連携まちづくりとして注目を集め、その功績が認められ、令和元年度のふるさとづくり大賞(総務大臣賞)を受賞している。