「人に喜んでもらうこと」が写真家としての原点

中西裕人 氏(2002年文理学部史学科卒)写真家 【前編】

卒業生
2021年09月30日

学生時代、一緒に旅行に行って撮った写真を友人にあげたら喜んでくれた。それが中西裕人氏が写真家を目指すきっかけだった。プロとなった今もその原点を忘れず、被写体となる人や一緒に物を作る編集者ら、関わったすべての人に喜んでもらえる写真を撮りたいという気持ちでシャッターを切る。

2015年にそれまで勤務していた出版社を辞めフリーの写真家として独立した中西氏は、父・裕一氏が研究してきたギリシャ正教の聖地・アトス山をテーマとして選んだ。そこで生きる修道士たちにも、同じ気持ちでカメラを向けている。

学生時代の旅行で撮った写真がきっかけで

学生時代のカンボジアの卒業旅行の写真(左から2人目)。

学生時代のカンボジアの卒業旅行の写真(左から2人目)。一眼レフを携え数千枚の写真を撮った(中西氏提供)

本学文理学部史学科在学中、中西氏は友人たちと4人でカンボジアなどを旅した。35ミリの一眼レフカメラを携えていって、訪ねた先々の風景や、旅先での友人たちの表情をフィルムに焼き付けた。当時はまだデジタルカメラではない。

「今見るとブレていたり飛んでいたり、ひどい写真ばかりなのですが、撮るのが楽しかったんです。そして、たまにちゃんと撮れている写真があるとプリントして友人にあげた。そうすると喜んでもらえるのが嬉しくて、漠然と写真家になりたいと思いました」

史学科では着物の文様について研究し書いた論文が指導教員に評価されて、学会で発表しないかと声をかけられた。しかし「卒業旅行に行って写真を撮りたいから」と言って断ってしまったそうだ。卒業後も「写真家になるという変な自信があって」、1年近く就職せずにその道を模索していた。

やがて知人から撮影スタジオというものがあることを聞き、入社することに。そこで働く全ての人が写真家志望だが、撮影する写真家の助手のさらに助手のような仕事だった。掃除や炊事、洗濯などの雑用もこなし、時間も不規則、入社した5人のうち3人は辞めてしまうようなスタジオだったという。

「でも、そこで先輩たちから仕事に対する姿勢や、物事の優先順位を叩き込まれたことが、一番の基礎になりました。最初は僕も辞めようかと思いましたが、よくしてくれる先輩もいて徐々に人間関係もよくなってきました。何と言っても現場が見られるのが楽しかったです。女優さんが来てこういうライティングをしたら、こんなふうに仕上がるんだな、というのも見られるし、雑誌に載っているこの商品の靴はオレが磨いたなとか……(笑)」

そこで2年ほど働くうちにチャンスが訪れた。スタジオの利用者で、雑誌『いきいき』を出版する会社の社長に、「ウチで働かないか」と誘われる。そして入社したのが2005年、25歳のときだった。『いきいき』はシニアの女性向けの雑誌で、ともに文化勲章を受章した日野原重明さんや森光子さんといった著名人の写真から、ファッション関係や料理、通販用の商品の写真まで、ありとあらゆる撮影をこなした。

「社員のカメラマンは僕だけだったので、本当にいろいろな経験をさせてもらいましたし、どんな状況でも考えれば解決する方法はあるということを学びました。25歳で入社してとにかく現場経験を積むことができたのは、運が良かったといえるかもしれません」

2015年に独立するまで丸10年社員として働いた。その間には写真はフィルムからデジタルへと移行する。それもいい経験になったと中西氏は言う。雑誌名が『ハルメク』と変わった現在も、フリーとしてその仕事を続けている。

父が追い求めてきたギリシャ正教の聖地へ

アトス山のメギスティス・ラヴラ修道院で司祭としての職務を務める父・裕一氏(中西氏撮影・提供)

アトス山のメギスティス・ラヴラ修道院で司祭としての職務を務める父・裕一氏(2014年撮影)(中西氏撮影・提供)

父に同行してギリシャを訪れたのは、2014年のことだった。

「いつかは独立したいと考えていましたし、会社に入ってもうすぐ10年だなと思いながら、何か一生追いかけられるテーマを探していました。それで一度父親と一緒にギリシャに行ってみるか、と思いました」

中西氏の父・裕一氏は本学哲学科でギリシャ哲学を学び、大学院に進んで博士課程を満期退学、ギリシャ語も習得した。非常勤講師などを経て35歳で生産工学部の専任講師となり、2016年に退職するまで教授を務めている。研究活動でギリシャのアテネ大学に1年間滞在したとき、ギリシャ正教の祈りに参加する機会があり、興味を持った。

ギリシャ正教はキリスト教の教派の一つで、ギリシャやロシアなどの東欧を中心に多くの信者を持つ。正式な名称は「正教会」で、信者は「正教徒」と呼ばれ、ギリシャ人の95%以上が正教徒と言われている。その聖地がギリシャ北東部、標高2033mのアトス山。1046年以来女人禁制で、20ほどの大きな修道院と単身から数人で住む修道小屋(ケリ)などに分かれ、2000人ほどの修道士たちが祈りの生活を送っている。

洗礼を受けて正教徒となった裕一氏は、以後年に数回ずつアトス山を訪れギリシャ正教の研究に専念した。2012年にはパウエル中西裕一として司祭となり、20年間アトスに通い続けるうちに最古の修道院であるメギスティス・ラヴラ修道院を訪れた際は、司祭を任されるまでになった。大学を退職した現在は日本の御茶ノ水にある東京復活大聖堂(ニコライ堂)で司祭として務めている。

その父がコンパクトカメラで撮ってくるアトス山の写真は見たこともない風景で、中西氏はかねがね興味を惹かれていた。

観光客の入山は1日10人程度までと制限されているが、正教徒になって手続きを踏めば自由に入れる。中西氏も洗礼を受け、父の知り合いの修道士が尽力して撮影許可を取ってくれた。

「一番最初に訪れた時の感想は、ここは果たして現実なのか、ということでした。それは中世から変わらない生活なんです」

聖地で祈りの生活を送る修道士たちの姿に大きく心を動かされた中西氏は、翌年、独立してフリーの写真家となると、コロナ禍で中断するまで毎年アトス山に足を運んだ。

写真を通して伝えたいこととは

『いきいき』で働いていた頃から、とくに人物写真が好きで、会社側もそれを理解してくれ、人物撮影の仕事を多く回してくれたという。アトス山の写真でも、世界遺産にも登録されているという自然や修道院などの風景もさることながら、そこで活動する父、そして修道士たちの姿や表情をとらえた写真がとても印象的だ。 

それらの写真を通して伝えたいことを、中西氏はこう話す。

「彼らは僕が行った瞬間から家族のように接してくれるんです。そういう態度や考え方はどこから来ているのか、そして彼らが継承し続けている祈りとは何なのかと調べていくと、ギリシャ正教の根幹には家族への愛や人に対する思いがあり、祈りは自分のためではなく人への祈りであることがだんだん分かってきました。ただ行って写真を撮ってきたというのではなく、彼らがなぜこういうところで暮らして、生涯をここで閉じる覚悟をしたのか、それを知りたいし、それを伝えられるような写真を撮らなければいけないと思っています」

自分の写真が人に喜んでもらえたのをきっかけに写真家を志した中西氏。今、プロとして心がけていることを尋ねると、その原点からまったく変わらない言葉が返ってきた。

「雑誌や広告などの撮影は、一人では当然できないので編集者やライターと一緒に働き協力し合って撮影をするわけですが、一番いいのは編集者なら編集者の気持ちが僕に乗り移ったような絵が撮れることだと思っています。女優さんなどから直接お仕事をいただくこともありますが、そういう時もとにかくそこに関わった人たちみんなに喜んでもらえる仕事ができればいいなと思っています。アトス山の写真でも修道士さんたちが協力してくれているので、それは同じです」

<プロフィール>
中西裕人(なかにし・ひろひと)

1979年6月14日生まれ。東京都出身。2003年文理学部史学科卒業。
2003年から2005年まで外苑スタジオ勤務。2005年より雑誌『いきいき』(現『ハルメク』専属フォトグラファーとして、文化人、芸能人、ファッション、料理、商品など撮影全般に従事。2015年に独立し、中西裕人写真事務所設立。
現在、雑誌、書籍、広告、Web、動画の各分野で活躍中。