【座談会】 東京パラリンピックを終えて、メダリストが次に目指すもの

米岡聡選手(2008年文理学部卒業)、富田宇宙選手(2012年文理学部卒業)、木村敬一選手(2013年文理学部・2015年大学院文学研究科博士前期課程修了)

卒業生
2021年10月21日

東京パラリンピックでメダルを獲得した3人の本学文理学部卒業生。
同じキャンパスで青春時代を過ごした3人のメダリストが、東京でパラリンピックの舞台で感じたことや、互いの関係、今後の目標について語り合う。

木村選手と富田選手のライバル関係、木村選手と米岡選手の意外な接点

高校時代にパラリンピックに初出場した木村選手、在学中に趣味程度に走り始めた米岡選手、卒業するとほぼ同時に水泳を再開した富田選手。三者三様の大学時代を過ごしてきた(前編参照)

東京パラリンピック100mバタフライでは金メダルの木村選手に続いて銀メダルを取った富田選手は試合直後「木村君が金でうれしい」とコメントした。2人が知り合ったのは本学卒業後であるが、ライバルでありながら練習パートナーだった時期もあり、そんな関係から出てきた言葉だろう。一方、少し年齢が離れている米岡選手だが、在学中から木村選手とのつながりがあった。

木村敬一選手

木村敬一選手

米岡 富田さんとは今日が初対面なんです。

富田 はじめまして(笑)。

米岡 木村君は実は……。

木村 高校の教育実習で担当してもらっていました。

米岡 その時大学4年生で、頼りない先生だったんですが。木村君は元気のいい子だなと思いました(笑)。

木村 僕が一番やんちゃでした。教室にいられると困る生徒でしたね(笑)。お二人の話を聞くと大学時代ずっと競技をやっていた僕だけがマイノリティみたいになっていて、なんか奇妙な感じです(笑)。

富田 木村選手と始めて会ったのは関東地区の普及合宿ですね。木村選手は大学院生だった。

木村 私たちはまだまだパラ競技の普及もしていかなければいけないので、日本代表レベルだけではなく、障害のある選手が多く集まる機会となる合宿を年に1回か2回しています。そこで富田選手と初めて会いました。2013年だったかな。

富田 木村選手が、大学院を卒業してから野口先生(野口智弘教授/400メートル自由形元日本記録保持者、本学文理学部教授)にマンツーマンで指導を受け始めたんだよね。

木村 いや、野口先生には大学院生になってから指導を受けていたんですけれども……。

富田 野口先生が学外で行なっておられる一般の社会人向けの練習会があって、2015年頃に僕がそこに参加させていただいたのがきっかけで、木村選手と野口先生の個人的な練習に徐々に参加させていただくようになり、リオデジャネイロパラリンピックの前の1年間ぐらいは木村選手と一緒に練習させていただくことが多かったです。

木村 僕は金メダルを取りたい、つまり世界中の誰にも負けたくないと思っていて、そのためには常に高いパフォーマンスでトレーニングを続けなければいけなかったですし、どんな時でもさらに上を見て鍛え続けなければいけない状況でもありました。そういう中で、世界のトップレベルで戦える相手が、国際大会に行かずしても日本国内でもいてくれたというのは、僕にずっとプレッシャーをかけ続けてきてくれたということであり、すごく僕にとって負荷だったと思います。でもそのプレッシャーがあったからこそ、東京パラリンピックの決勝の舞台はすごく緊張しましたけれど、それに押しつぶされることなく勝ちきれた。パラリンピックの水泳、とくに僕らの障害の重いクラスは、競争率はオリンピックに比べれば低いですし、世界選手権やパラリンピックぐらいの大きな大会にならないと、本当に負けるかも知れないという戦いにはなかなかならないものでしたが、国内でも負けるかも知れないという戦いをつねにしてきたことが、最終的な成果につながったと思うんです。なので、富田選手の存在は、僕をパラリンピックチャンピオンに押し上げてくれるための、うーん……。

富田 土台? はしご?(笑)

木村 (笑)相手だったと思います。

富田宇宙選手

富田宇宙選手

富田 (「木村君が金メダルを取ってくれてよかった」とコメントしたことについて)もともと一緒に練習していた時は、僕は木村選手とは違う障害クラスで、ライバルですらなかったんです。単なるチームメイトであり練習パートナーだった。その時間を一緒に過ごして、木村選手がリオで金メダルを取りに行くのを、僕は代表に入れなかったので日本から応援していたのですが、取れなかったことはチームメイトとしてとても残念でした。その後木村選手がもう一度東京でそれを目指すという決断をしてからも、普通にチームメイトとしてその木村選手を心から応援していました。その後で2017年に僕のクラスが変更になり、木村選手と同じクラスになって、そこからライバルになりました。だから自分はもちろん東京大会で、最もいい記録、最もいい結果を目指していましたが、それまでの木村君の努力を応援してきた自分も同時に存在していて、彼が金メダルを取ったことをうれしく思いました。そこに自分がどういう結果だったかは関係のないことなので。

米岡 選手村にいる間はあまり情報が入ってこない環境でもあったので(他の競技のことは)分からなかったのですが、離村した後は一日中テレビの前で、他の競技も見ていました。

木村 選手村はテレビがないので分からないんですよね。

東京の舞台に立って感じたこと、そしてこれから目指すもの

3人は結果を残すことができた東京パラリンピックを、改めて振り返ってどう感じているだろうか。そして目標を達成した今、パリパラリンピックに向けてどういう目標を設定しているだろうか。まだ3年後を考えるには早いかも知れないが、3人の内2人はすでに決めていることがあるようだ。

米岡聡選手

米岡聡選手

米岡 本当に現実離れしたというか、夢のような舞台だったなと感じています。試合があったのが(取材時点で)2週間ちょっと前でしたが、もっともっと前のことのような気がしています。それと今大会は本当に特別な状況下で開いていただけたということに、すごく感謝の気持ちがありますし、地元でやれたというのはすごく大きな意味を持っていたと思っています。無観客ということでしたが、オンライン上で友人や知人が応援してくれ、皆さんにすごく力をもらった大会だったなと思います。そういった場所でしっかり自分のパフォーマンスを出して、少しでもそういう応援に報いることができたのなら、よかったという気持ちです。

木村 本当に自分の中で長い間目標にしてきたことでした。自分が今まで生きてきた中でこれほどの大きな目標を立てたことはなくて、それを達成できたので、本当によかったなあ、という感想しか出てきません。お2人の話を聞いていて、自分は本当にまっすぐ生きてきたんだな、これしか自分は持ってなかったんだなって改めて思いましたし、そうやって頑張ってこられたこともすごい財産だなと思います。

富田 先ほど米岡さんからもお話がありましたが、僕にとっても初めてのパラリンピックで、たくさんの方に応援をいただき、皆さんに見ていただいて、競技をさせてもらう時間をいただけたことを、とても幸せに感じています。

木村 東京で大会ができたことはいろいろな意味で特別だったなと思っています。金メダルを取るという自分の一番の目標を、自分の生まれた国で達成できたことが何よりの幸せですし、そもそもこの特殊な環境下の中でのオリンピック・パラリンピックは、おそらく日本でしかできなかったのではないかなと思うんです。私たちは事前から毎日PCR検査を受け続け、選手や関係者の中から極力感染者を出さないようにして、大会を実施することによる感染の拡大だけはさせてはいけなかった。それを徹底することができたのは日本だったからだと思いますし、日本が世界に対して誇っていいことだと思うんです。

米岡(今後の目標について)今いろいろ各所と相談中のこともあるので、どうしようかな。考えははっきり決まっているんですけれど……。

木村 言えばいいじゃないですか(笑)。

富田 そんなすごいこと言うんですか(笑)?

米岡 いや、大したことじゃないんですけれど、ずっとマラソンもやってきたので、トライアスロンにはいったん区切りをつけて、マラソンでもう一回チャレンジしてみようかなと思っています。

木村 僕は何も決まっていないんですが、金メダルというのが自分にとって大きすぎる目標だったので、今はしっかりと新しい目標を見つけることが目標。そして、さらに強い人間に成長できるようにしていくことが目標ですね。

富田 米岡さんがマラソンに専念すると今聞いたので、僕はトライアスロンにチャレンジしようかなと今思いました(笑)。

木村 一枠空いたので(笑)。

富田 何らかの形でパリを目指していきたいなとは思っています。これまで競泳で8年間やってきましたが、今度はまた別の環境でさらにステップアップできるように、海外に行って競技に取り組みたいなと思っているんです。コロナもあるのですぐに行けるかどうかは調整中ですが。それから今回東京パラリンピックで本当に多くの方に興味を持っていただいたので、この波をさらに大きくできるように、今は一人でも多くの人に、パラリンピックの魅力や、僕らを通して感じていただける多様性の価値とか共生社会の重要性を伝える活動にも、全力を傾けていきたいなと思っています。

<プロフィール>

米岡聡(よねおか・さとる)
1985年9月6日生まれ。神奈川県愛甲郡清川村出身。10歳で網膜剥離を発症する。筑波大学附属視覚特別支援学校を卒業後、本学文理学部心理学科に入学、在学中に知り合った伴走者の勧めで練習会に参加するようになる。25歳から本格的に競技に取り組み、2012年に3時間を切ったのをきっかけにトライアスロンにも挑戦。2015年に世界トライアスロンシリーズ横浜大会で4位となり、以後世界レベルの大会で上位入賞を重ねる。トライアスロンと並行してマラソンも続けてきており、1500m、5000mのレースにも出場している。
パラリンピックは今回が初出場、トライアスロンで銅メダルに輝く。大会直前の世界ランキングは9位だった。三井住友海上火災保険(株)所属。


富田宇宙(とみた・うちゅう)
1989年2月28日生まれ。熊本県熊本市出身。3歳から水泳を始め、済々黌高時代には県高校総体6位、九州大会出場などの記録を残す。高校2年の時に網膜色素変性症を発症し、徐々に視力が低下。システムエンジニアになることを目標に、本学文理学部情報システム解析学科(現・情報科学科)に進学した。卒業後キヤノンソフトウェア(株)に入社、同時期に障害者水泳クラブ「東京ラッコ」に入会。2015年にパラスポーツに専念するためEYアドバイザリー(株)に入社、2種目でアジア新記録を作るなどS13クラスのスイマーとして好成績を重ねる。2016年のリオデジャネイロパラリンピックは派遣標準記録に満たず出場を逃すが、翌年に障害のクラスが変更され、S11クラスでは世界トップクラスとなる。
東京パラリンピックでは400m自由形、100mバタフライで銀メダル、200m個人メドレーで銅メダルを獲得した。EYJapan(株)所属。


木村敬一(きむら・けいいち)
1990年9月11日生まれ。滋賀県栗東市出身。先天性疾患による網膜剥離で2歳の時に全盲になり、母の勧めで10歳の時に水泳を始める。小学校卒業と同時に上京し筑波大学附属視覚特別支援学校に入学、高等部在学中に北京パラリンピックに出場する。本学文理学部教育学科に進学し健常者の水泳サークルに所属。在学中の2012年に行なわれたロンドンパラリンピックでは旗手を務め、銀メダル1個と銅メダル1個を獲得した。大学院文学研究科教育学専攻博士課程に進学し、野口智博コーチにマンツーマンで指導を受ける。2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得。その後単身アメリカに渡りトレーニングを続ける。
東京パラリンピックでは100mバタフライで金メダル、100m平泳ぎでは銀メダルを獲得した。東京ガス(株)所属。