いま、過去に学ぶ 講義録と通信教育

取り組み・活動
2020年05月11日
『日本大学通信教育部入学案内』(昭和24年)の画像

『日本大学通信教育部入学案内』(昭和24年)

昨年の調査によると、日本には786校の大学の内、通信教育部(課程)を設けているのは44校で、全体の5.6%と決して多い数字では無い(文部科学省「学校基本調査 令和元年度」)。

しかし、戦後の高等教育において、この“遠隔授業”は“教育の機会均等”の象徴とも呼べるものだった。

新型コロナウイルス蔓延により、“通信教育”が取りざたされているいま、日本大学の通信教育の歩みを振り返ってみたい。

GHQによってもたらされた“通信教育”

昭和23年(1948年)、GHQ(連合国軍総司令部)によってもたらされた教育基本法の施行により、「すべての国民が誰でも能力に応じて教育を受ける機会が与えられるとする」(教育基本法 第三条)との号令が発せられた。

これにより、これまで遠隔地や勤労のために大学通学が難しかった人々にも、“通信教育”といいう新たな制度によって、大学の卒業資格を得るための門戸が開かれた。

ほぼ時を同じくして、日本大学はじめ法政大学、慶応義塾大学、中央大学、日本女子大学の五つの大学で「通信教育講座」設置の申請が認定を受け、日本大学では、法学部、文学部(現・文理学部)、経済学部の三つの学部で設置し募集を開始すると、第一期生は5千人近く(4,967人)まで膨らんだ。

92歳で死去するまで日本大学通信教育部に関わった會田範治さん

92歳で死去するまで日本大学通信教育部に関わった會田範治

当時、終戦後間も無い中で、学校施設の不足や経済状況により、高等教育を受けることができなかった多数の成人・勤労青年が教育機会を求めていたのである。

大学における通信教育は、まさにこのような時代・社会の要請を受けて誕生した教育制度だった。

昭和24年度から通信教育部として本格的に授業を開始するも、必要となったテキスト制作はゼロからのスタート。ここでテキスト作成に力を入れたのが、通信教育部長に就任した會田範治だった。

會田は、以後15年もの間、通信教育部長として教育、指導にあたり、同時に、通信教育で必須ともいえるテキストの作成に力を入れた。

自ら「論理学」テキストを執筆する一方、執筆者に原稿督促などをして、昭和28年の初めには卒業資格に必要なテキスト101科目296分冊の完成にこぎ着け、第1回卒業生375人を無事に送り出した。正に、會田は自らの手で、戦後の通信教育を牽引した。

ちなみに、會田が通信教育部草創期に執筆した「論理学」のテキストは、約70年を経た現在でも通信教育部で使用され続けている。

「通信教育」の原型「校外生制度」

戦後を迎える前までは、大学卒業資格は取れなかったものの、「通信教育」自体の原型は、実は明治時代から存在した。

それが「校外生制度」と言われるもので、遠隔地の学生が「講義録」を通じて学習する、現在の通信教育に近い制度だった。日本大学の前身にあたる日本法律学校でも、創立当初(明治23年/1890年)からこの制度を導入していた。

日本法律学校における最初の講義録『臨時科外講義録』(明治23年6月21日発行)の画像

日本法律学校における最初の講義録『臨時科外講義録』(明治23年6月21日発行)

当時の事情をみてみよう。

「校外生制度」は、地方在住者や労働などのために通学できず、主に講義録で科目を修めるという制度で、入学試験・制限などはなく、誰でも入学可能だった。

入学金50銭、月額聴講料一科目30銭、四科目以上1円という相場は正科生の半額。当時、大卒初任給が18円、喫茶店でコーヒーが一杯1.5銭の時代にあって、「講義録」など法律の勉強ができる教材を手にできることは、大いに価値のあるものだった。また、こうした「講義録」の発行が、学校経営を支える重要な収入源でもあったことも日本大学百年史(第一巻)に残されている。

また、日本法律学校の最初の講義録は、正規の授業開始前に、臨時科外講義を開始。実施が近づいている新法(商法・民事訴訟法、裁判所構成法など)について講義された、『臨時科外講義録』であり、のちに正規の授業終了後に『日本法律学校 第一年級講義録』として刊行されている。

「講義録」を活用した日本大学法制学会

「講義録」を活用して、大学という枠組みを超えて活動した先人たちもいた。

日本大学法制学会(現・日本法制学会)を立ち上げた、日本大学第一学園創始者の一人・石渡敏一、「日本大学中興の祖」第3代総長・山岡萬之助、そして、日本大学高等師範部卒で「独学者の慈父」と呼ばれた・澤野民治らである。

澤野たちは、2つの目的を持って日本大学法制学会を創設した。

(目的1) 国民に法律知識を普及させること
(目的2) 地方の経済的に恵まれない青少年支援のため、勉学の機会を与えること

目的に沿って、先ずは、法律用語を平易な口語体で記述した『普通文官養成講義録』を発行。また、社会的弱者を救済するために「無料民衆法律相談所」を設置し、法律問題や人事問題の相談に応じた。

大正7年(1919)に高等試験令が改正され、独学者でも、文部省の認める「専門学校入学検定試験」などに合格すれば、予備試験を受けることができ、さらに本試験を受け、高等官吏や判事・検事・弁護士になることができるようになった。

法制学会は、このような独学者の立場をよく理解して熱心に指導し、大正11年には、同会の会員5名を弁護士試験に合格させた。その実績から法制学会に入会する者が増加したことから、大正15年には日本大学から独立し、日本通信大学法制学会と称するようになった。

日本大学高等師範部を卒業後、法律の普及啓蒙に尽力した澤野民治

日本大学高等師範部を卒業後、法律の普及啓蒙に尽力した澤野民治

澤野が法制学会の第3代会長に就任した昭和3年(1928)には、会員・会友は3万人を越える規模に広がっていた。

当時、法制学会が発行し、普通文官試験受験者にとって必須の参考書は、『試験問題答案集』、『受験案内と勉強法』、『法律経済述語辞典』、『口述試験必修法』など、20種類以上にも達し、澤野は、これらをほとんど実費に近い価格で配布し、地方会員で貧窮な者には、講義録を半年または1年無償で貸与したことも。

さらに、学費に窮する者には職を探し、あるいは書生として自宅に住まわせて日本大学に通わせ、合格の見込みのある者に対しては、月々一定の額を支給もしくは貸与した。

こうして澤野のまわりには多くの独学者が集まり、日本橋箱崎町にあった澤野の自宅は、「箱崎塾」と呼ばれるほどだった。

また、「講義録」だけでなく、機関雑誌『法制』を発行して、成功者の体験を掲載し、この中で読者のあらゆる相談にも応じました。そして、機会があるごとに講演を行い、彼らを励ました。澤野が「独学者の慈父」と呼ばれたのも、こうした献身的なサポートによるものであった。

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こうして見てみると、明治期の講義録による学習から誕生した日本大学の通信教育の歴史は、敗戦後の教育改革により、正規の大学教育として生まれ変わり、今日に至っている。

戦後の混乱期に教育の機会均等という目的から誕生した大学通信教育は、昭和40~50年代以降、生涯学習の場という役割をも担うこととなり、現在は、インターネットを利用した21世紀型の大学通信教育へと移行しつつある。

時代は変わり、教育形態はさらに多様化していく。

しかし、創立当初より校外生制度を導入し、数多くの意欲ある学生に対して教育への門戸を開いてきた伝統は、今後も日本大学の中で受け継がれていくことだろう。