学祖の生まれた町 萩【中編】

人物編

取り組み・活動
2020年10月22日

長州藩の城下町であった山口県萩市は、現在でも江戸時代の地図を片手に街歩きができるという、古い景観を残す貴重な地域です。今回は萩の町から、学祖山田顕義が生きた時代を偲ばせる史跡を紹介し、本学創立に到るルーツを探していきます。

久坂玄瑞(1840-64)は高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」とされる人物で、藩医久坂良迪の三男として誕生しました。松陰は久坂を「防長年少第一流の才気ある男」と評価しており、松陰の妹文と結婚します。志士として他藩士とも交流して長州藩(萩藩)の尊攘派を指導し、品川の英国公使館焼き討ち、下関の外国船砲撃に参加しました。元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)で、流弾を受け負傷し、25歳で自刃しました。

松下村塾時代の顕義が一番近しい先輩が久坂でした。文久2年(1862)、京都にいる久坂から、勤王の志を貫くため、早く上京するようにと萩の顕義に宛てた書簡が残されています。

高杉晋作(1839-67)は、長州藩大組士、高杉小忠太の長男として誕生しました。藩校明倫館に入り、その後松下村塾にも通います。文久3(1863)年、一般士民の勇壮者を募って奇兵隊を創設。元治元(1865)年12月、保守派の藩政府に対しク―デターを起こして勝利し、討幕への道筋を描き出しました。慶応3年、病により29歳で死去しました。

顕義は慶應2(1866)年の幕長戦争(四境戦争)の際、高杉とともに丙寅丸(へいいんまる)に乗り組み、圧倒的な火力を誇る幕府軍艦に砲撃を加え、これを退けました。後に顕義は、このときの高杉は「艦首に立ち眼をいからして叱咤」し、その姿は「威風英気凛々として」いたと記しています。

維新三傑として著名な木戸孝允(1833-1877)は、長州藩医・和田昌景の長男として誕生しました。後に桂家の養子となり桂小五郎と称します。慶応2年、薩長同盟締結に尽力、維新後は、五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県などにも関わりました。明治10年45歳で死去しました。

顕義は、岩倉使節団で欧州滞在時に木戸と深く交流しました。木戸の日記には、欧州各地を顕義と視察している様子が記されています。

吉田松陰(1830-1859)は長州藩士杉百合之助の次男としてこの地で誕生しました。誕生地は萩市内を一望できる高台にあり、顕義の誕生地である顕義園から徒歩10分程度の距離にあります。

松陰は天保5(1834)年に叔父吉田大助の養子となり、翌年、叔父の死去に伴い吉田家を継いだ後も両親とともにこの場所に住み、19歳頃まで過ごしました。嘉永元(1848)年、一家は松本村清水口に移り、現在の松陰神社境内に生活を移しました。

現在、誕生地に建物はありませんが、大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っています。

渡辺蒿蔵(1843-1939)は、幼少期に天野家の養子となり天野清三郎と名乗り、後に渡辺家に復籍しました。顕義とほぼ同時期に松下村塾に入りました。禁門の変後、アメリカ・イギリスに留学し、造船技術を学びます。明治6年に帰国し、長崎造船局の初代所長に就任しました。49歳で退職し、松下村塾の保存事業に地元代表として尽くしました。松下村塾生としては最も長生きし、昭和14年97歳で死去しました。

渡辺と顕義は年齢が近いこともあり、深い親交がありました。明治4(1871)年9月、顕義はスコットランドにいる渡辺に書簡を送り、兵部省を辞職してでも洋行するという決意を送っています。実際には、顕義は役職を辞めることなく、岩倉使節団の一員として欧米諸国を回覧することになりました。

【参考文献・URL】
『山田顕義と近代日本』(萩博物館、2014年)
萩市観光協会公式サイト https://www.hagishi.com/