2、3年生の学生記者。最新号を手に編集室で
1921年10月15日創刊。
本学のスクールカラーが「紅」に制定されたその年に、産声を上げた「日本大学新聞」。通算発刊数1,400号を超え、2021年10月には100年の節目を迎える。
昨年は新型コロナウイルス感染防止のため入構が制限され、活動は一時休止。学内のイベントは中止・延期が相次ぎ、取材活動の肝要である足を止めざるを得ない状況になった。そんな中、大学新聞の存在意義の灯を消さないため、学生記者は試行錯誤を重ねた。
編集長:小林莉子さん(スポーツ科学部3年)
副編集長:猪股春奈さん(スポーツ科学部3年)
デザイン部長:中井碩人さん(スポーツ科学部3年)
の3人に、100年の歴史のバトンを必死につないだ日本大学新聞社の1年を聞いた。
編集室に額装されている第1号。ここから歴史が始まった。
日本大学新聞社は、学生新聞として、東大新聞社、三田新聞(慶応義塾大学・現在廃刊)に次ぐ三番目の歴史がある。
関東関西の大学でスポーツ新聞部(サークル)がある学校はあるが、学術(学部や学内の行事)を扱うのは珍しい。
現在、1~3年生の15人によって構成され、入部ではなく「入社」と位置付ける。
「日本大学新聞」を年間11号の約44,000部、競技スポーツ部に特化したグラフ誌「Nsports」は年1回の約20,000部を発行している。
取材範囲は、北は福島・郡山から静岡・三島までの各キャンパスにある16学部の他、競技スポーツ部所属運動部や本部学生部所属のサークルなど多岐に及ぶ。
「キャンパスごとに色があり、それを一つに繋げる意味がある」。
編集長を支える副編集長の猪股春奈さん(スポーツ科学3年)は言う。
各自取材した記事は自身でレイアウトを組む。広告班、デザイン班、管理班に分かれ編集作業を行う。
中でも広告班は自分たちで広告先へ連絡を取る。例えば発行日と近い公開日の映画があれば配給会社へ連絡。出稿を取り付ける。
「多くの学部、競技部を読者の皆さんに伝えられる。はやぶさ、宇宙エレベーター、コロナの迅速診断法からオリンピアンまで」と、編集長の小林莉子さん(スポーツ科学部3年)は魅力を語る。
編集作業を行う学生記者
<編集スケジュール>
月初(発行後すぐ)編集会議を開き、企画を決定
↓
アポ取り、取材
↓
月中 原稿〆切
↓
レイアウト作業
↓
月末発行
これを2月以外の毎月繰り返す
編集長の小林莉子さん
編集長の小林さんは小学校から高校までサッカーに明け暮れ、大学でもサッカーを続けようと考えていた。しかし足首の脱臼骨折をしてしまい、競技をあきらめた。
その折、母から勧められたのが、入学式で配られた資料の中に入っていた新入生歓迎号。「日本大学新聞社」の存在を知り、競技者から競技者を応援する立場に転身を決めた。
思い出に残っている取材は2019年の鳥人間コンテスト。学生新記録を樹立した理工学部航空研究会メーヴェ36の取材。
心を打たれた。
魂を込めて機体をつくっている姿。部員の応援に応えるようにパイロットが限界を超えて目標を達成する姿。
自身も一つのことに熱中していたからこそ湧いてくる思い。
その思いをペンに込めた。
副編集長の猪股春奈さん
副編集長の猪股さんは、初めての取材が鹿児島。授業後に重いキャリーケースを引き羽田空港へ。着いてからもバスを乗り継ぎようやく宿に到着。会場へもバスなどを乗り継いだ。
遠路はるばる足を向けた甲斐があった。同じスポーツ科学部の同級生2人が優勝。帰りは空港までレスリング部のバスに同乗させてもらい、感謝と優しさに触れた。現場でしか得られない体験が原動力となった。
デザイン部長を務める中井さん
デザイン部長を務める中井さんは、小学校から高校まで野球漬け。
大学入学後も社会人と硬式野球を続けていたが、ケガで断念。熱中するものを探す中で、同級生の猪股さんが学校内で原稿を書いているのを見ていた。持て余すエネルギーを発揮する場所として2年次からの入社を決めた。
「野球で憧れだった日大三高の取材できるかもしれない」
その思いは現実となる。日大三高の「伝説の冬合宿」に三日間密着。
12月の終わりに朝4時からの始まり、夜9時に終わる。この取材の貴重な体験を通して鍛えられた。
第99代・3年生の(左から)中井さん、小林さん、猪股さん
「オリンピックを盛り上げよう」。
第99代として制作の中心となった3人が2020年2月20日に掲げた目標だ。
しかし、延期になった東京五輪。
追い打ちをかけるように、昨年4月から新型コロナウイルス感染防止のため大学の入構は制限。足を運び取材を通して聞くことができた学生の声はなくなった。情報が拾えない0からのスタート。SNSなどを駆使し、自身の授業の合間を縫って日々アンテナを張り続けた。
目標を失いかけたが、100年を目前にした伝統が3人の背中を押した。
100代目となる後輩。その先も歴史をつながなくてはならない。
通常であれば4月から行うはずの新入生の勧誘が行えず、ようやく勧誘活動が出来たのは昨年の11月。オンライン説明会で仲間を募り、12月にようやく6人が入社した。
まだ後輩に引き継げていない取材もある。
大会、イベントがオンラインという形になり、まだ紹介できていない新しい試みを始めたサークルもある。
コロナ禍2年目に差し掛かる今、第99代が奮闘してもがいた道なき道が、後輩の道しるべになる。
掲げた「オリンピックを盛り上げよう」は後輩に託し、3人はサポートに回る。
「人との関わりが薄くなってしまい、全学部の学生で繋がれるような、全国の日大生で一つの紙面をつくりたい」
現場を知る学生記者だからこそ抱いた思いから、今回のモザイクアート企画を立ち上げた。
メッセージが集まるかという不安をよそに、515件ものメッセージが寄せられ、どの言葉も前向きな力強さがあった。その紙面を紹介する。
515件も集まった日大生の「2021年の抱負」により出来上がった紙面
(以下、紙面より抜粋)
私たちが、日大生の「2021年の抱負」をネットを通じて募集したのは昨年の12月21日。その日から1月11日までの22日間で、各学部と通信教育部から515件のメッセージが寄せられた。
不安のない者はいないはずなのに、寄せられたメッセージはどれも一様に前を向こうとしている。長く暗いトンネルの、その先の一条の光を見つめて。
(略)
はじめよう。今できることを。スタートからフィニッシュラインを目指してバトンを握りしめ、自分の道をひたむきに突き進んでいこう。
メッセージを寄せてくれた学生のみなさん、熱い抱負をありがとうございました。
全国にバラバラになった学生の熱量が、凝縮された渾身の1面。
今回の紙面で「日本大学新聞社」の記者たちが集めたのは、場所は違えど同じ学び舎に通う同士の思い。
みな同じ方向へ向かい、学びたい、成長したい、という心の声が敷き詰められた。
日本大学新聞社が代弁して発したメッセージは、コロナ禍で生じた様々な壁を飛び越え、購読者、各キャンパスへと日本大学に関わる人々に届けられた。