いま、過去に学ぶ 天災からの大学復興

【後編】

取り組み・活動
2020年05月01日
復興の象徴とも言える震災で唯一残った幟(のぼり)

復興の象徴とも言える震災で唯一残った幟(のぼり)

関東大震災(1923年9月1日)当日から、理事・山岡萬之助の陣頭指揮により、日を開けずに再興の道を踏み出した日本大学は、2日後には、早くも三崎町本館跡地にバラックを建てる準備を始めた。

一方で、山岡を総務として教職員で「復興委員会」を組織し、別動隊として学生を中心とした「救護班」も組織した。山岡には何としてでも復興しなければならない使命があった。

未曾有の天災から、わずか1か月後に“復興ののろし”を揚げた、誉れ高き先人たちの足跡には、学ぶべきものがある―。

八面六臂の働きをみせた山岡萬之助

震災で急逝した総長・松岡康毅(第2代総長)の代わりに、陣頭指揮に当たったのが、のちに第3代総長となる、理事の山岡萬之助だった。

山岡は松岡の信任も厚く、すでにこの10年前(1913年)から学監(旧制度で、学長・学校長の命を受けて学務を執り、学生を監督する職員)を任され、大学経営を事実上、執り仕切っていた。

大正9年(1920年)に、日本大学を私立専門学校から「大学」へと昇格させた最大の功労者もまた、山岡だった。

「大学」に昇格するには、莫大な供託金と校舎の設立が大きな障壁だったが、見事に乗り越えてみせ、早稲田大学、慶応義塾大学に次いで、「大学」昇格を勝ち取った。

しかし、3年後によもや、大学昇格のために苦労して新築した三崎町校舎をはじめ、駿河台の歯科・高等工学校の校舎などすべての施設を失うことになるとは、その時は思いもよらなかった。

震災後、急遽、松岡に代わり、裏の経営に加え、表の“顔”としての言動を求められた山岡は、感傷に浸る間も無く、教職員・学生に不安を与えないために、一日も早い大学復興を成し遂げなければならなかった。

震災から6日後の9月7日には、学生の協力を得て、山岡の斡旋により、司法省内の謄写版を借りて『日大新聞』特報をガリ版刷りし、「来る十月一日より授業を再開する」旨を記載した。

そして、これを東京市内の盛り場を中心とした、至るところの焼け残った電柱や崩れ残った石垣、門柱、板塀等に貼りめぐらした。

結果、この貼り紙は、当時東京市内に散在居住していた在学生をはじめ、多くの関係者に日本大学復興の力強い示唆を与えることとなった。

学生大会には600人の学生が集った

『日本大學復興一年誌』は続く。
9月20日「校庭(焼跡)に学生大会を開く。来り会する者数百、復興の気(たかぶ)る。」

「日本大学中興の租」と呼ばれる山岡萬之助氏の画像

「日本大学中興の租」と呼ばれる山岡萬之助

校庭(焼跡)の学生大会に集まった参加者、実に600名。いかに多くの学生たちが、大学の再開を願っていたかが分かる。

廃墟と化した校舎敷地の真ん中に、焼け残った粗末なテーブル二脚を置き、これを演壇として開会した。

壇上に上がった山岡理事は、
「罹災をまぬかれた幾多の大学が、現在授業の見通しもなく途方に暮れている時、わが大学は率先十月一日から授業を再開すると発表し、本日はまた熱烈なる学生の意気がかくのごとき学生大会となって現れたことは実に感無量である。学校が焼かれたのみでなく、家も財産も焼かれてしまった学生も多かろう。順調な学生生活から急激に悲惨な境涯に打ちのめされたものも多かろう。しかしながら諸君の胸には燃ゆるがごとき潑剌(はつらつ)たる意気がみなぎっている。これを原動力として大学を復興し、そして諸君自身の前途も切り開いて行くべきである」
との激励の挨拶をした。

そして、山岡が掲げた通り、10月1日、見事、授業が再開した。震災からわずか30日後のことだった。

○10月1日 授業開始
昼間授業 西巣鴨町池袋四八〇 東京洋服学校
夜間授業 小石川区大塚町七〇 日本高等女学校及帝国女子専門学校
付属中学 9月25日より 小石川区原町 京北中学校校舎で午後半日授業

三崎町の焼け跡に建てたバラックは本部事務所となり、10月1日には他校の校舎を借りて授業を再開。

その後、11月下旬には、仮校舎のほとんどを完成させ、大正14年9月に工・医歯科系の新校舎が駿河台に、大正15年から昭和2年にかけて文科系の新校舎が三崎町に完成した。

○11月10日 三崎町仮校舎一部が竣工 → 高等工学校(現・理工学部)の授業再開

○大正13年1月 駿河台仮校舎竣工

のちに山岡は、大正15年4月の予科入学式で、こう話している。

「本学の特色は古来意気と頑張りにある。如何なる困苦()艱難(こんくかんなん)にも堪え忍んで所期の目的を達成するだけの決心がなければならぬ。即ち、総てに進歩的積極的努力を費さねばならぬ」(「日本大学新聞」75号)

あの震災を乗り越えた山岡が言うからこその、説得力がそこにはある。

震災後、教職員と学生の強い協力体制により、素早く仮復旧をなし遂げることができた日本大学は、学生数でも、年を明けた2月、3月の試験期には約10,000名と、震災前の約11,500名と大差ない数を示した。すなわち、震災が原因で学業を廃する者や、他に転校するものはほとんどいなかったのである。

また、4月の入学試験では、受験者が昼間部で定員の3倍、夜間部では4.5倍と大幅に増加した。

偏に、山岡の強靭な精神力と実行力のもと、教職員、学生、校友の「意気と頑張り」で達成したものと言えるだろう。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

現在、日本大学では、大学の理念(目的及び使命)を、こう定義している。

「日本大学は(中略)自主創造の気風をやしない 
 文化の進展をはかり
 世界の平和と人類の福祉とに
 寄与することを目的とする(以下略)」。
 ※大学のホームページより抜粋
 

その上で「日本大学が育成を目指す人材像」については、

「日本大学では、教育理念『自主創造』の下、日本大学が育成を目指す人材像を「自主創造型パーソン」と定めています。これは、激しく変化するグローバル社会、不確実性の高い社会環境,価値観の変化、突発的な天災などの状況下においても自ら考え行動できるような、卓越した創造力・判断力・コミュニケーション力を持つ、人間力豊かな人材のことを示しています。」(「日本大学FDガイドブック」より)※大学のホームページより抜粋

関東大震災と日本大学。約100年前に起きた史実の教訓と自信が、いまもこうして言葉として伝えられている。

先人たちの教えに感謝するとともに、その逞しいばかりの“意気と頑張り”を誇りに、われわれも、この苦境を乗り越えるヒントにしたいものだ。