学祖の生まれた町 萩【前編】

学祖の家系と世界遺産

取り組み・活動
2020年10月15日

昨年(令和元年)、本学は130周年という節目の年を迎えました。次の時代へのステップとなる今年、今一度原点に立ち返り、日本大学の学祖山田顕義が誕生した山口県萩市を取り上げます。

山口県萩市には、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に5か所の史跡が登録されています。そして、日本大学学祖・山田顕義は萩で生まれ、彼の家系は長州藩の近代化に大きな足跡を残しました。今回は、学祖とその家系について、萩の世界遺産を踏まえて紹介していきます。

(1)村田清風と長州藩の近代化

村田清風旧宅跡

村田清風旧宅跡

山田顕義の大伯父(祖父の兄)には、村田清風(むらたせいふう 1783-1855)がいます。アヘン戦争が始まった天保11(1840)年、清風は家臣団による銃陣の大演習実施を提言し軍制改革に着手しました。天保14年、長州藩としては約200年ぶりに実施されたこの大軍事演習は、対外的な危機意識を家臣団に認識させることとなりました。

萩反射炉(世界遺産)

萩反射炉(世界遺産)

清風は、高島流砲術(西洋砲術)の大操練見学に藩士を派遣し、西洋流砲術の導入を推進します。藩では洋式大砲の鋳造を鋳物師の郡司家に命じ、青銅製の大砲を製造しました。しかし、より強力な鉄製大砲を製作するためには、反射炉の導入が不可欠で、安政3(1856)年に萩の地に反射炉が築かれました。

(2)山田亦介と軍制改革

村田清風の弟である市郎右衛門(いちろうえもん)は山田家の養子となり、その子供として亦介(またすけ 1808-65)、七兵衛(しちべえ 1823-1869)が誕生しました。七兵衛は顕義の父、亦介は、伯父にあたります。

山田亦介は、嘉永5(1852)年に過激な海防論を唱えたため謹慎・隠居処分となりましたが、安政5(1858)年、清風の後継者ともいえる改革派の周布政之助が藩政の実権を握ると、亦介の隠居は解かれ、軍制改革の総責任者に任命されました。

亦介は洋式軍艦の整備を進め、長州藩2隻目の軍艦となる庚申丸(こうしんまる)の建造を指揮します。また、顕義の父、七兵衛は幕府の海軍士官養成機関であった長崎海軍伝習所に派遣され、航海術・運用術を学んでいます。

(3) 学祖と松下村塾

学祖山田顕義は、弘化元(1844)年、萩で誕生しました。安政4(1857)年、自宅からほど近くの吉田松陰の松下村塾に入門します。

顕義が松陰から学んだ期間は、安政4年末から翌年12月までと約1年ほどでしたが、実践を重視する松陰の教育は、顕義の心に深く刻まれました。幕府との戦争の際、顕義は御楯隊という諸隊に属していましたが、松陰の士規七則を筆写して隊士たちに配りました。

このように、山口県萩市の世界遺産には、学祖山田顕義とその親族が深く関係しています。山口県萩市に行く機会がありましたら、ぜひ訪ねてみてください。

【参考文献・URL】
『世界遺産登録記念企画展 明治日本の産業革命遺産と萩』(平成27年、萩博物館)

萩市観光協会公式サイト/世界遺産 https://www.hagishi.com/spots/sekaiisan