日本大学の歴史

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第一回卒業生総代 荒川 五郎 Goro Arakawa

1865年生~1944年没

荒川 五郎

日本法律学校が第1回卒業式を挙行したのは、明治26年(1893)7月のことです。第1回卒業生のなかには、廃校問題が浮上する中、母校の存続に奔走し、校友会の結成や活動に関わるなど、本学の発展に寄与した人物が多くいました。荒川五郎も、その卒業生の一人でした。

荒川は、日本法律学校を首席で卒業し、母校の再興を支援するため、しばらく事務職員として学校に残りました。その後、衆議院議員として活動しながら、日本大学理事・日本大学中学校(現日本大学第一高等学校)校長も務めています。

日本法律学校入学

安芸国山県郡八重村有田(現広島県山県郡北広島町有田)に、荒川柳助の五男に生まれました。家は農家で兄弟が多かったため進学することが困難な状況でしたが、苦学して広島師範学校を卒業し、小学校教員となっています。

向学心に燃える荒川は、広島出身で当時元老院議官であった船越衛の知遇を得て、明治23年(1890)3月に上京しました。年齢はすでに25歳に達していましたが船越の書生となり、同年9月に創立したばかりの日本法律学校に入学しました。授業は皇典講究所の校舎を借用して夜間に講義が行われたため、生徒のほとんどは、下級官吏や小学校教員など働きながら学ぶ苦学生でした。荒川も、昼間は家庭教師や筆耕をして学費などを稼ぎました。

日本法律学校は、司法大臣山田顕義が関与していることもあり、司法省などから錚々たる講師が招聘されていました。他校では見られない国史、国文、古代法制などの科目があり、日本の歴史を踏まえて法学教育が実施されました。念願の進学を果たした荒川は、熱心に受講し成績は大変優秀でした。
当時優秀な学生は、高等文官試験や判事・検事試験を受けることが一般的で、荒川も周囲から受験を強く進められています。しかし、肩書や資格ではなく、あくまでも自己の努力によって世に立つことを信念としていたので、官吏や法曹になる道を選びませんでした。

山田顕義の急逝

荒川は、山田顕義と直接言葉を交わす機会もありました。ある時、憲法問題のことで校長室に金子堅太郎を訪ねると、そこに山田が居合わせ、講師の内藤耻叟と小中村清矩も交えての懇談となりました。この時、山田の温情豊かな対応に荒川は感激したと語っています。このように、山田は生徒に対して愛情深く接し、生徒も山田を慕いました。しかし、明治25年(1892)11月、日本法律学校関係者に大きな衝撃が走りました。山田が生野銀山(兵庫県朝来市生野町)において急逝したのです。悲嘆にくれるなか荒川は生徒を代表して、若くして国事に奔走し、戊辰戦争、法律編纂など数々の功績を残した山田を追想する弔辞を述べました。

第1回卒業式

明治26年(1893)7月、日本法律学校は、初めての卒業生を社会に送り出しました。入学者数は200余名でしたが、卒業者数は46名にまで減少していました。それだけ働きながら勉学を続けることが困難であったのです。

日本法律学校第1 回卒業式の集合写真(皇典講究所)

日本法律学校第1 回卒業式の集合写真(皇典講究所)

荒川五郎卒業証書

荒川五郎卒業証書

卒業式では、幹事の宮崎道三郎が生徒に卒業証書を手渡し、来賓代表の清浦奎吾が祝辞を述べ、荒川が卒業生総代として答辞を読みました。答辞はまず国家を讃え母校を誇り、法学の本旨を述べ、続けて母校の精神、皇国の本領を発揮し、講師の学恩に応える努力をすることを誓っています。現在、漢文で書かれ、所々に推敲が施された荒川の草稿が残されています。

答辞草稿 和紙に漢文(楷書)で書かれ、所々に推敲が施されている

答辞草稿 和紙に漢文(楷書)で書かれ、所々に推敲が施されている

廃校問題の発生

青年時代の荒川五郎

青年時代の荒川五郎

卒業式終了後、卒業生有志は祝宴を開き、その席上母校発展のため献策することを決議しました。しかし、この時すでに山田急逝後の経営難から、教職員による廃校決議が行われていたのです。それを知った卒業生たちは、母校再興運動に立ち上がり、その結果、松岡康毅を校長に就任させることに成功しました。

この時、荒川は勤務していた帝国海上保険会社(現株式会社損害保険ジャパン)を辞め、日本法律学校の「事務長兼教務主任」を引き受けました。しばらくは無報酬で、下宿代を支払うにも支障をきたしたといいます。日本法律学校の経営が軌道に乗り出した、明治32年(1899)5月、荒川は中国新聞社から同社の主筆として招聘され郷里広島に赴きました。中国新聞社での荒川は、教育問題に深い関心を持ちました。

衆議院議員・教育者として

新聞社の仕事が認められて名声が高まった荒川は、周囲から推されて衆議院議員選挙に出馬しました。明治37年(1904)3月の第9回衆議院議員選挙で初当選し、以降昭和12年まで議員活動を続けました。政治活動においても教育問題には熱心に取り組んでいます。この間、多くの教育事業にも携わり、全国私立学校協会理事長にも就任しています。

荒川の教育に対する考えは、たんに学力を授けるのではなく、人格の陶冶、実行(体験)を重視し、自主独立の気概を持つ人間を育てることにありました。

大正11年(1922)4月には、日本大学中学校の第二代校長に就任します。ところが、翌大正12年9月1日、関東大震災が起こり甚大な被害をこうむりました。しかし、荒川はこの困難を乗り切り、昭和18年(1943)6月まで21年間の長きにわたり校長職を務めました。荒川は毎朝校門で生徒を出迎えるなど、教育熱心な名校長として生徒から慕われました。

日大に進んだ日本大学中学校出身者とともに(大正11年6月)。前列左から4 人目が荒川、その左隣が幹事の加納金助(後理事長)

日大に進んだ日本大学中学校出身者とともに(大正11年6月)。
前列左から4 人目が荒川、その左隣が幹事の加納金助(後理事長)

郷里に建つ「荒川五郎之碑」(佐藤栄作筆)

郷里に建つ「荒川五郎之碑」(佐藤栄作筆)

荒川の功績を讃え、昭和11年の第70回帝国議会において、議員在職30年及び教育界への功労に対し表彰を受けています。太平洋戦争の戦局が厳しくなった昭和19年8月、荒川は80歳で亡くなりました。郷里の生家跡には、「荒川五郎先生之碑」(元総理大臣佐藤栄作筆)が建立されています。

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