日本大学の歴史

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第二代総長 平沼 騏一郎 Kiichiro Hiranuma

1867年生~1952年没

平沼 騏一郎
実は私の素志と違ふ。司法大臣になるより、寧ろ大審院長で司法部をよくし、停年で退きたいと思つてゐた。それが入閣するやうになつた。これより私の境涯が変つて来た。時勢も変つて来たので、元のやうなことは段々なくなつて来た。

大正12年(1923)9月、第21代内閣総理大臣加藤友三郎の急逝にともない組閣を命ぜられた山本権兵衛は、大審院長であった平沼騏一郎に司法大臣として入閣することを懇願しました。山本は、自分も老躯(退役海軍大将、元首相、71歳)を押して出るのだから、いやだろうが是非入ってくれと平沼を説得の最中に、関東大震災が起こったのでした。地震がなければ断るつもりであったと、平沼は回顧しています。はじめの引用文は、そのときの談話で、昭和17年6月23日、平河町の機外会館で行なわれた平沼の口述筆記です。

司法官人生一筋

平沼騏一郎は、慶応3年(1867)美作国津山(岡山県津山市)に、津山藩士平沼晋の次男として生まれました。斎藤淡堂・宇田川興斎・箕作秋坪に漢学・算術・英学を学んでいます。

平沼騏一郎別邸「知新館」表門(岡山県津山市、国の登録有形文化財)

平沼騏一郎別邸「知新館」表門
(岡山県津山市、国の登録有形文化財)

明治21年(1888)帝国大学法科大学を卒業後、司法省参事官試補を命ぜられ(民事局勤務)、平沼の司法官人生が始まります。23年に東京地方裁判所判事となり、千葉および横浜地方裁判所部長を勤め、32年(1899)東京控訴院検事、38年大審院検事、司法省民刑局長、大審院検事局次席検事・兼司法省刑事局長、司法次官を歴任して大正元年(1912)検事総長、大正10年10月大審院長、そして、12年9月第2次山本権兵衛内閣の司法大臣に就任という、司法畑一筋の人生を歩んできた平沼でした。

平沼と日本大学とのかかわりは、遡って明治30年(1897)、本学の講師として「民法」の講義を担当したことに始まりますが、会田範治(明治34年日本法律学校卒業、後日本大学教授)は「平沼先生は債権法を担当していたが東大でも同じく講義、中央では刑法講義をしていたようだ。平沼先生は実に明快であった」と回顧しています。

この当時、維持員でもあった平沼でしたが、翌31年9月、日本法律学校の財団法人認可申請をするため、九段坂上の富士見軒で維持員会が開催されました。そこで「日本法律学校寄付行為」規定が採択され、その規定に従って理事選挙を行い、斯波淳六郎と平沼が理事に選出されました。その後、斯波が内務省宗教局長に就任することで理事を辞任、代わって東京帝国大学法科大学教授戸水寛人が理事に就任し、松岡康毅校長・平沼・戸水両理事の3名での運営体制ができました。こうして廃校問題から脱却し学校再建がはかられ安定をもたらします。

日本法律学校から日本大学へ

戸水寛人(1861~1935)。日本法律学校理事、弁護士、衆議院議員

戸水寛人(1861~1935)。
日本法律学校理事、弁護士、衆議院議員

しかし、慢性的に引き続く学生数の少なさ、財政難、経営の困難などをいかに克服し、機構制度や施設の整備拡充をはかって、大正9年の大学令による大学昇格をいかに実現させるか、大学首脳陣の方針・役割はきわめて重要でした。
この難局に、「戸水氏の放胆、平沼氏の細心、一は奇、一は正、前者は断じ、後者は行う、両々相補ふて日本大学は絶好の経営者を有するものと言はざるべからず」と『日本』新聞(明治39年6月20日)が評したほど、松岡校長のもとで平沼・戸水両理事は経営改善に努めました。明治36年(1903)の専門学校令の制定により、校名を「日本大学」と改称し、予科の設置、大学部商科の設置など教育組織の整備拡充を実行していきました。

さらに、同『日本』新聞記事は、控訴院検事時代の平沼は「カミソリ検事」として今も法曹界の噂に上るほどで、現在は民刑局長として司法部内に「驕児的跋扈を恣にしつつあり」と、ほとんど思うがままに振る舞っているほど存在感があったようです。こうした法曹界の人脈を利用してか、日本法律学校には表のように、控訴院・地方裁判所・大審院の判事・検事が多数講師として来ていたのです。

明治33年10月 日本法律学校職員調

明治33年10月 日本法律学校職員調

第2代総長就任

大正11年1月、寄附行為改正が認可され、「日本大学総長」職が新設されました。3月理事会で新総長職に松岡康毅、学長に平沼が選出されましたが、翌12年9月の関東大震災で松岡康毅総長が被災し死去してしまいます。同年10月に開催された日本大学維持員会(平沼騏一郎司法大臣官邸)、次いで評議員会を経て、11月、平沼は日本大学第2代総長に就任しました。その後、昭和8年3月に辞任するまで約10年間総長を務めることになります。

平沼揮毫扁額「培根達支」

平沼揮毫扁額「培根達支」

冒頭で引用した、平沼の司法官僚として人生を全うしようとした素志とは違う、法曹界に隠然たる影響力を持っていた平沼ゆえに、その手腕と幅広い人脈を期待され、時勢が平沼を動かしていったともいえないでしょうか。昭和17年に行われた平沼の談話ということを考えれば、大地震により司法大臣として入閣したことだけが平沼の境遇を変えたのではなく、松岡総長の死によって日本大学の総長に就くことにもなった、ということも言外に含まれていると考えてもおかしくはないでしょう。

第2代総長に就任後も、大正13年(1924)1月には、大東文化学院(現大東文化大学)の開設にともない初代総長に就任、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長を歴任し、昭和14年(1939)、第35代内閣総理大臣に就任と、時勢はさらに平沼の人生を変えていきました。

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