日本大学の歴史

  • 日本大学の軌跡
  • 沿革
  • 日大ヒストリア
  • 学祖 山田顕義
  • 日大をつくった先人たち
  • 歴代の理事長・学長
  • 動画で見る日大

初代校長 金子 堅太郎 Kentaro Kaneko

1853年生~1942年没

金子 堅太郎

初代校長の金子堅太郎は、嘉永6年(1853)2月、福岡藩士金子直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村(現福岡市中央区鳥飼)に生まれました。創立者の宮崎道三郎より2歳年長です。

文久3年(1863)正月、満9歳にして藩校修猷館(しゅうゆうかん)に入学し、朱子学を学びます。修猷館は廃藩置県後に閉校となったものの、後に再興して県立中学修猷館(旧制)となります。再興にあたっては旧福岡藩主の黒田家と金子が大きく貢献し、現在も県立修猷館高等学校として続いています。

旧制時代から残る修猷館高校東門

旧制時代から残る修猷館高校東門

アメリカ留学

明治3年(1870)末に上京し、当初は漢学の塾に通いました。翌年には英学を学ぶため、福岡藩出身でアメリカ留学経験のある、司法省権中判事平賀義質(よしただ)の家に住み込み、ABC…から習い始めました。同年11月、岩倉使節団の米欧派遣に際して、旧藩主黒田長知が私費留学生として加わることとなり、金子と団琢磨(後に三井鉱山専務理事・三井合名会社理事長などを歴任)がその随行者に選ばれ、横浜を立ちました。

周知のとおり、使節団には兵部省理事官山田顕義陸軍少将(日本大学学祖)の姿もありました。
アメリカでは、東部のボストンに居住し、市立の高等小学校を経て、市立高校2年に編入しました。高校には詩の朗読などをする「暗誦演述」の課目があり、金子は演説術に興味を持って勉強し、大学に入ってからの討論会では、その演説の巧みさが評判となります。また、英米文学や歴史も積極的に学び、彼らの考え方を身につけました。

明治9年10月、ハーバード大学ロースクールに入学。教員の多くは実務法律家であったため、憲法の講座はなく独学で学びました。当時、ロースクールには日露戦争時の外務大臣で、ポーツマス講和会議全権委員となる小村壽太郎が文部省の留学生として在学しており、彼の誘いにより2人で下宿を借りました。

明治11年6 月、法学士(Bachelor of Laws)の学位を受け卒業。9月、マサチューセッツ工科大学(MIT)の鉱山学科を卒業した団琢磨と共に帰朝しました。

官僚そして教育者

金子は政府の役人になることを望みましたが希望の官職は得られず、東京大学予備門(東京大学教養学部の前身)の英語教師となりました。当時の政府内はいわゆる薩長閥が主流を占めており、他藩の出身者で高等官(現在のキャリア官僚)として登用される者は少数でした。この頃、専修学校(専修大学の前身)の創立にかかわります。

しかし国会開設・憲法制定が具体化に向かう時代、ハーバード大学法学士の金子の見識は必要とされており、明治13年(1880)1月、法律案の審議や建白書を取り扱う元老院に採用されました。17年2月、東京師範学校(筑波大学の前身)の教授を兼ね、法令概要などを教えました。4月、宮内卿伊藤博文に招かれ、元老院に籍を置いたまま、憲法起草のスタッフとして伊藤の秘書官の立場で、井上毅・伊東巳代治と共に草案創りに携わることになりました。

明治19年からは帝国大学法科大学(東京大学法学部の前身)の講師も務め、日本で初の「行政法」講座を受け持ちました。金子が日本法律学校設立にかかわった経緯は、いまだ不明な点が多いのですが、この時の関係で、ドイツ留学経験者が多い創立者たちの知遇を得たとみられます。

大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)2月、金子は枢密院書記官兼枢密院議長秘書官で、翌年に開設が決まった帝国議会の議院制度視察のため、7月から欧米各国で調査に当たりました。10月4日、日本法律学校が創立され、外遊中の金子も創立者11名の一人に名を連ねていました。

明治22年 枢密院会議之図(金子秘書官・山田大臣の名がある)

明治22年 枢密院会議之図(金子秘書官・山田大臣の名がある)

校長在任中の明治24年2月に著した議院(国会議事堂)建築意見。第一次仮議事堂は同年1月に焼失している

校長在任中の明治24年2月に著した議院(国会議事堂)建築意見。第一次仮議事堂は同年1月に焼失している

翌23年6月6日に帰国し、21日に日本法律学校の校長に就任。9月21日の開校式における演説では「日本法律学校は、一方に於ては日本古来の法令を編纂研究し我が国固有の国体を保守し、一方に於ては欧米改進の精神を採用し、以て法律を講究せんと欲す(中略)本邦固有の美風と欧米文明の素とを折衷調和し、以て長を取り短を捨つるの学風を漸次養成せんことを希望す」との、教育理念を示しました。

日露戦争での勲功

明治31年 農商務大臣

明治31年 農商務大臣

明治30年代には、伊藤首相の下で農商務大臣や司法大臣を歴任します。日露開戦直前の37年(1904)2月4日、金子は枢密院議長の伊藤から官舎に呼ばれ、アメリカ国内で、日本を援護するための広報活動に従事して欲しい旨を命じられました。

時の大統領は旧知のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)でした。金子は直ちに渡米して面談、彼の日本支持の考えを確認しました。その後、ポーツマスでの講和条約が成立するまでの一年半、講演会や社交界での交流を通して、日本の立場を説いて廻りました。これにより、ロシア支持者が多かったアメリカの世論は日本支持に傾き、日本が戦争を継続する上で、大きな力となりました。

二世五姓田芳柳画「日露開戦伊藤公対談絵巻物」(法学部図書館蔵)より

二世五姓田芳柳画「日露開戦伊藤公対談絵巻物」(法学部図書館蔵)より

昭和17年(1942)5月に89歳で死去。太平洋戦争の最中でしたが、NYタイムズ紙は「平和の主唱者金子伯爵死す」との見出しで、その死を報じました。

Back to top