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戦後の私学振興に尽力 加藤 一雄 Kazuo Kato

1896年生〜1992年没

加藤 一雄

加藤一雄は、終戦直後に法文学部長・世田谷予科長となり、新制大学では法学部長・文学部長を歴任し、また、昭和22年~44年までの長きにわたり本学理事も務めました。一方で、草創期の日本私学団体総連合会常任理事・大学基準協会常任理事・大学設置審査会委員等の要職に就任するなど、戦後のわが国教育制度改革の中心に位置し私学教育振興に尽力しました。

上京~日大予科へ入学

加藤は、明治29年(1896)福岡県嘉穂郡飯塚町(福岡県飯塚市)に生まれました。

大正6年(1917)に福岡県師範学校第二部を卒業し、4月から穂波の楽市小学校の訓導(教員)となり社会人として歩み始めましたが、第一次世界大戦後、日本は大戦景気に沸き、都市部へ人口が集中して生活は大きく変化し、新思潮が興隆するなど、向学心の強い加藤にとって抑えがたいものとなっていました。そのときの心境を「いよいよもって湧き上がる新しい思潮の数々。米騒動、大きなストライキと、その裳裾にときに暗い色を見せながらも、時代は溌剌と揺れ動いてゆく。」と述懐しています。恩師の推薦で奉職した小学校の訓導でしたが、ついに辞職して上京、8年4月本学法文学部の予科に入学したのでした。

山内確三郎

山内確三郎

大学では国際法の中村進午に学び、監事山内確三郎(郷里飯塚市の先輩で加藤の遠縁にあたる)には、専門の法学よりもその豪放磊落な人柄に驚嘆と畏敬の念を覚え、大正13年の卒業の年、大学に残れと熱心に説得したのが現職司法官のまま本学常務理事となった塩野季彦だったというように、加藤の人生観に少なからぬ影響を与えた恩師たちがいました。

また、東京では、郷里の先輩であった筑紫峰門の世話で、玄洋社の総帥頭山満や三井財閥の総帥団琢磨に会い見識を深めたようです。

卒業~予科教授兼学監

大正13年3月、法文学部を卒業した加藤は実業家志望で、民間会社の東京支店長に内定し、結婚式も挙げたばかりでした。そのようなとき、常務理事の塩野季彦から大学に残れとの誘いを受け、法文学部の講師として日大に残ることになったのです。昼間は事務方の経験も必要だと教務に与り、夜間に講義をする毎日がはじまり、以後半世紀にわたって本学の発展に貢献しました。

昭和3年、本学が工学部を設置する際、学監円谷弘がその任に当たっていましたが、円谷に対しては、文部省在職中に日大の教員になって現在も大学で活躍しているという、元文部省仲間の羨望もあってなかなか交渉が進まないというので、加藤は山岡学長の命により文部省に掛け合って奔走し認可を取ったといいます。この年、加藤は大学に残るときの約束だったという海外留学に派遣されますが、そのときの論功行賞ではなかったかと振り返っています。

昭和3年 英国留学出発の日、東京駅構内での加藤夫妻『私学教育の半世紀』より

昭和3年 英国留学出発の日、東京駅構内での加藤夫妻『私学教育の半世紀』より

昭和5年(1930)5月、経済学研究のため2年間の英国留学を終えた加藤は、山岡学長の請いを受け予科教授兼学監に就任し学校運営に携わっていきます。12年に法文学部助教授兼学監となりました。

戦後~私学振興に貢献

昭和20年、本学は終戦直後にいち早く授業再開を決定し、学園の復興に取り掛かっていきます。加藤は、この年12月法文学部教授となり、翌21年8月に本部教務部長に就任、9月には世田谷予科長を兼任します。

戦後の混乱のなか、GHQによる占領政策が次々と打ち出され、教育関係にも多くの指令が発せられました。私学関係者は、それまでの官学偏重行政に対し、私学の存在意義を一層発揚し、この困難な社会情勢に団結して対処しようと動き始めました。こうした動きは、加藤によれば、当時日本教育会(旧大日本教育会)の会長であった佐野利器(本学初代工学部長)が中心となって、大学だけでなく全私学が結集して私学の復興を図っていこうと始まったといいます。

本部玄関前と桜門ビル(右奥)周辺(笠原喜四郎氏所蔵『日本大学法文学部卒業記念帖 昭和24年度』所収)

本部玄関前と桜門ビル(右奥)周辺
(笠原喜四郎氏所蔵『日本大学法文学部卒業記念帖 昭和24年度』所収)

そして21年9月、加藤が司会となって日本大学本部において日本・早稲田・慶応・明治・中央・法政の6大学の総長会議が開かれ、12月に再び総長会議を開催し、全国私立大学連合会を設立、同時に大学~幼稚園にいたる全国私学を結集する日本私学団体総連合会の結成も決議され、本学呉文炳総長が会長に就任しました。加藤は大学を担当する第一部長(23年常任理事)に就任しました。事務局は神田三崎町の本学桜門ビル内に置かれました。これは、幸いにして本部が戦災を免れており、文部省やCIE(民間情報教育局)が様々な案件を加藤のもとに持ってきたという事情もあって、事務局に都合がよかったのです。

昭和25年 文部省大学設置審議会委員として同志社大学を審査(2列目中央)『私学教育の半世紀』より

昭和25年 文部省大学設置審議会委員として同志社大学を審査(2列目中央)『私学教育の半世紀』より

22年7月、新制大学の設立基準を制定するため、国公私立大学46校が発起校となって大学基準協会が設立され、加藤は事務局常任理事に就任します(24年基準委員会委員長)。事務所が日本大学本部内に設けられ、活動の拠点となっていきました。次いで23年大学設置委員会臨時委員、同年日本私立大学協会設立(常務理事)、25年に大学設置審査会委員に就任、翌26年の日本私立大学連盟発足にあたっては、本学は発起人校・理事校となっています。

このように、加藤は日本大学を代表してこれら私学団体の設立・運営に参加して手腕を発揮し、戦後私学の歩みの中で中心的な役割を果たしていきました。

昭和26年 日本私立大学連盟発会式(前列右から2人目が加藤)『日本私立大学連盟二十年史』から

昭和26年 日本私立大学連盟発会式(前列右から2人目が加藤)『日本私立大学連盟二十年史』から

一方、学内では、加藤は理事を長く務め、昭和37年学長、38年準付属校として設立された土浦高等学校、宮崎日本大学高等学校校長に就任、43年には総務局担当理事に就任し、大学紛争収拾に尽力しました。

その後、昭和47年から3期にわたり私立学校教職員共済組合の理事長を務め53年に退任、平成4年(1992)8月に96歳で亡くなりました。

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