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第二代校長 松岡 康毅 Yasukowa Matsuoka

1846年生~1923年没

松岡 康毅

明治25年11月の学祖山田顕義の急逝によって、日本法律学校は廃校の危機に直面することになりました。明治22年10月、司法大臣であった山田の全面的な支援により創立され、司法省関係者の協力も得て歩みだした日本法律学校は、開校わずか3年にしてその経営基盤を失うことになったのです。

この危機的状況を乗り越え、日本法律学校を再興する中心となったのが松岡康毅(やすこわ)でした。

司法省の実務官僚

弘化3年(1846)、阿波国板野郡七条村(徳島県板野郡上板町七条)に、松岡康吉の四男として生まれた松岡康毅は勉学の好きな少年だったようで、長じて、明治2年、蜂須賀徳島藩知事に政治上の意見書を提出して認められたといい、藩の文学復読方に任ぜられ、その後、藩少属に抜擢され東京藩庁詰となりました。

明治4年、新政府に出仕し司法省権大録となって以降、判事・東京裁判所所長、司法大書記官、広島控訴院裁判長、大審院民事第一局長、東京控訴院長を歴任し、明治24年(1891)検事総長に就任しました。翌25年、弄花事件(ろうかじけん)に伴う司法省の内紛で検事総長を辞任しますが、明治4年に司法省に出仕してから検事総長辞任まで20年間にわたり司法関係の実務官僚として活躍しているのです。

この間、明治19~20年にかけ内閣から欧州派遣の命を受け、ドイツ・フランスの裁判実務制度の調査と主要都市以外の各地域の現況を視察しています。渡欧にあたっては、山田司法大臣の詳細な訓示を受けたようです。松岡は、これまでもたびたび裁判実務の運用について山田大臣に建議をしてきた実績があり、山田は、実務に堪能な松岡康毅に裁判実務に関する調査を期待したのです。

渡欧中、ドイツで松岡の通訳を担当したのが、のちに日本法律学校の創立者の一人となる樋山資之で、この当時、ドイツには宮崎道三郎・穂積八束・平島及平・斯波淳六郎らが留学していました。

帰国後の松岡康毅は、山田司法大臣のもとで法律取調委員を命じられ、民法・商法など各種法令の調査・審議に従事しています。

この頃になると、松岡は職務上だけでなく、プライベートな部分でも山田顕義との行き来が多くなり、山田の音羽の別荘にも囲碁・晩餐とたびたび訪れている様子が「松岡康毅日記」に記されています。このような関係もあってか、松岡は日本法律学校創立時の評議員の一人に名を連ねていました。

日本法律学校の廃校危機

明治26年(1893)7月、日本法律学校の第1回卒業式が挙行されました。式典には46名の卒業生および創立者の宮崎道三郎、本多康直、樋山資之、評議員の松岡康毅、清浦奎吾、中村元嘉等が参列しました。しかし、そこには校長金子堅太郎の姿はなく、卒業証書は幹事から卒業生に手渡されたといいます。このとき、山田急逝後すでに幹事・評議員・講師等の責任で日本法律学校の廃校が決定され、これを受けて金子は卒業式の前日に辞職したため、卒業式には出席しなかったのです。

日本法律学校卒業証書(明治30年)

日本法律学校卒業証書(明治30年)

松村鶴吉郎や旭亀吉ら卒業生たちは驚愕したものの、直ちに再興運動を展開します。司法省で山田顕義に恩義を受けた清浦奎吾も、「一体廃校の理由が解らない。」といって、積極的に再建の道を探ってくれた一人です。松岡康毅に校長就任を交渉したのも清浦たちでした。廃校問題は世間にも漏れ伝わったようで、『改進新聞』などが「日本法律学校ついに廃校す」との記事を掲げる間も、中村元嘉・本多康直・長森藤吉郎・片岡静輔や卒業生によって再興運動は続けられ、幾分のめどがつくようになりました。

日本法律学校の再興計画

松波仁一郎。廃校の危機にあった日本法律学校に講師として招かれた一人。後に日本大学の初代商学部長となった

松波仁一郎。廃校の危機にあった日本法律学校に講師として招かれた一人。後に日本大学の初代商学部長となった

学校復興の最大の障害は、資金難でした。山田顕義の在世中は、司法省関係者の支援があったわけですが、それも期待できません。いまや日本法律学校は在校生や校外生からの授業料・購読料のみで経営しなければならなくなったのです。そこで、最も経費がかかる人件費を切り詰めるため、講義料が安くてすむ大学卒業直後の若い講師に依頼することにしました。松岡康毅や中村元嘉は、その足で学士たちを訪れて、懇願し、松波仁一郎、仁保亀松、織田万、中村進午といった当時新進学士を、無給あるいは50銭程度の講義料で招聘し、経営負担の軽減をはかったのでした。

本多康直等著『民事訴訟法講義』(全)。明治26年 日本法律学校発行『講義録』に連載された各口述筆記を1冊にまとめて完結書として出版したもので、本書は特に著名であった。

本多康直等著『民事訴訟法講義』(全)。明治26年 日本法律学校発行『講義録』に連載された各口述筆記を1冊にまとめて完結書として出版したもので、本書は特に著名であった。

こうして、日本法律学校は9月から新年度の講義を開講することができました。そして、開講科目・課程の見直しをはかり、正科とは別に行政法の集中講義を行う「参考科」を設け『講義録』も出版していきました。また、中断していた日本法律学校主催の講談会を再開するなど様々な工夫をこらしました。

司法省指定学校の認定と松岡の校長就任

明治26年(1893)12月、司法大臣芳川顕正は司法省告示第91号を発令し、日本法律学校をはじめ9私立学校を指定し、判事検事登用試験の受験資格を与えることとしました。この指定に伴い特別認可学校規則が廃止となり、特別認可学校の指定からはずされていた日本法律学校は、「司法省指定」学校となり、学生の確保、即ち経済的基盤を安定化させることができるようになったのです。

日本法律学校は、この「司法省指定」の朗報を受けて評議員会を開催し、改めて松岡康毅を校長に推薦し、松岡の第2代校長就任が実現しました。司法省指定と松岡の校長就任が実現したことで廃校問題も無事に落着しました。

以来、松岡は日本法律学校の運営に献身し、明治36年の専門学校令による日本大学への組織変更、そして総合大学への転換を進めていきました。

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