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日本大学高等工学校 初代校長 佐野利器 Toshitaka Sano

1880年生〜1956年没

佐野利器

明治末年、理系の高等教育機関は、官立は東京・京都・東北・九州の4帝国大学と工業専門学校が8校でしたが、医学教育機関同様、施設設備に経費がかかるといった事情もあり、私立では、ようやく明治42(1909)年に、明治専門学校(現九州工業大学)と早稲田大学大学部理工科(現理工学部)が誕生したにすぎませんでした。

震災前の高等工学校校舎

震災前の高等工学校校舎

大正になって、政府は高等教育機関の拡充を図り、工業専門学校は11校が設置され、明治専門学校も大正10(1921)年には、国に移管されました。私立では、東京物理学校が大正6年に専門学校に昇格、大正12年には小西写真専門学校(現東京工芸大学)が創立されました。

そうした中、既存の工業専門学校では対応できない、中等教育機関卒業後に働きながら学べる工業教育機関をとの考えから、大正9年6月に創設されたのが日本大学高等工学校で、その初代校長を務めたのが工学博士佐野利器でした。

耐震構造の研究を志す

佐野は、明治13(1880)年に山形県西置賜郡荒砥村(現白鷹町大字荒砥)で戸長*を務めた山口三郎兵衛の四男として生まれました。幼名は安平で、読書と工作が好きな少年でした。

*戸長(こちょう):明治前期の町村の行政責任者。江戸時代の名主や庄屋から選ばれることが多かった。

明治26年、藩校興譲館の流れを汲む米沢尋常中学校(現県立米沢興譲館高校)に進学しました。3年生の時に父が死去し、その後、天童藩の織田家家臣だった佐野家の養子となり、利器と名を改めました。

中学校時代(右)『佐野博士追想録』より

中学校時代(右)『佐野博士追想録』より

佐野は、陸軍幼年学校に進み軍人となることを希望していましたが、中学校の物理学教師と親しくなり、次第に科学技術に興味を持つようになり、第二高等学校の2部(理系)に進学しました。

明治33年、東京帝国大学工科大学建築学科に入学。日本銀行本店の設計で知られる工学科長辰野金吾教授などの教えを受けました。1年生の3学期にあった辰野教授の講義で、地震の多い日本では耐震構造の研究が必要との話があり、佐野はその方面で国家社会に尽くそうと決心しました。

卒業後は大学院に残り、講師も務めました。明治39(1906)年4月に起こったサンフランシスコ地震の後、震災予防調査会の調査に同行し、同地に約1ヵ月滞在。その結果、鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造の研究に力を注ぐこととなりました。

明治43年末にドイツ留学の命を受け、翌44年2月に出発。ドイツの大学や工事現場などで学ぶ一方、イタリア、ベルギー、フランス、イギリスを訪れ、その後アメリカに渡り、各地の大学や工場を見学しました。

大正3(1914)年4月に帰国。「家屋耐震構造論」をまとめ、4年に工学博士の学位を授かり、7年に東京帝国大学教授となりました。

日本大学高等工学校を創設

大正3 年に起こった第一次世界大戦(1914~1918)では、飛行機・戦車・毒ガスといった様々な新兵器が登場し、それらの生産基盤となる重化学工業が発達しました。こうした状況に対応するため、日本でも科学技術教育の向上が要求されるようになり、前述した官立高等工業学校が次々に新設されました。

大正7年、日本の工学系学界の総本山工学会に「工業教育調査委員会」が設置され、工業教育のあり方について調査・研究されました。結果、工業教育機関の内容が不十分であるとされ、様々な刷新案が練られ、翌8年に『工業教育刷新案』が作成されました。その過程で、同学会理事で調査委員会幹事であった佐野は「高等工学校案」を提案しました。

当時、中等教育を終えて進学できる工業教育機関は、昼間授業で卒業まで3年間学ぶ高等工業学校でした。そこで、すでに働いている技術者が理論を学べる夜間2年制の中堅技術者(技手)養成機関として、高等工学校という新しい教育機関を構想したのです。

委員会には、山崎達之輔文部省実業学務局長が委員として参加しており、この案に興味を持ちましたが、官立学校での設置は予算面などから困難でした。当時、実業学務局には日本大学法律科で学んだ圓谷弘が嘱託として務めており、圓谷は、日本大学で高等工学校を設立できないかと、山岡萬之助理事に相談し、実現することとなりました。

校長には、提唱者であった佐野に白羽の矢が立ちました。多忙なため乗り気ではありませんでしたが、自らの立案を実現することへの責任感と、日本大学理事だった水野錬太郎の勧めもあって、承諾しました。

大正9年6月、日本大学高等工学校が設置され、9月から土木科と建築科が開講しました。教員には、佐野が、学界や内務省(土木行政を管轄)などから一流の人材を集め、官立高等工業学校を凌駕するほどの講師陣に、入学希望者が殺到しました。

土木科の実習(大正14年頃)

土木科の実習(大正14年頃)

関東大震災復興と工学部の設置

大正12年9月に起こった関東大震災の後、帝都復興院が設置されると、耐震構造建築の第一人者である佐野は、総裁を兼ねる後藤新平内務大臣に依頼され、理事兼建築局長に任ぜられました。退任後、東京市が復興のために建築局を設置すると局長にと懇願され、2年余り勤めました。

震災後に再建中の駿河台校舎

震災後に再建中の駿河台校舎

この時期、高等工学校からの卒業生が巣立ち、佐野が指揮する復興事業の現場で大いに活躍し、彼らに対する評判は高まりました。こうした状況を受けて、日本大学に工学部を設置するべきだとの声が上がり、昭和3(1928)年4月、私立大学としては早稲大学理工学部に次いで2番目に、工学部(現理工学部)設置の認可を受け、佐野は初代学部長に就任しました。

昭和3年竣工の駿河台工学部本館(高等工学校OB が設計に携わった)

昭和3年竣工の駿河台工学部本館(高等工学校OB が設計に携わった)

工学部長時代の佐野利器(13年頃)

工学部長時代の佐野利器(13年頃)

翌4年には、専門部工科(現工学部)・工業学校(現習志野高等学校)も設置され、日本大学理工系教育機関の礎を築きました。

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