日本大学の歴史

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初代歯科長 佐藤 運雄 Kazuo Sato

1879年生~1964年没

佐藤 運雄

法律学校として出発した日本大学は、大正中期頃から昭和初年にかけて、学術の進展と社会の要請に果敢に挑戦して、駿河台地区を拠点に、工学・歯学・医学系の学部・学科を設置しました。これらの分野をすべて揃えた大学は、法律系から出発した私立大学には例を見ない日本大学の特色となっています。また、この時期の理系分野の学科の設置は、日本大学にとって大きな転機となり、総合大学へと発展する大きな要因となりました。

この転換期に、専門部歯科(前身は東洋歯科医学校)を創設し、医学科設置及び日本大学全体の発展にも尽力したのが佐藤運雄(さとうかずお)です。佐藤はさらに医歯一元論を提唱し、歯科学界にも大きな功績を残しました。

東洋歯科医学校の創立

佐藤は、明治12年(1879)に東京に生まれ、明治22年(1889)東京日本橋で歯科医院を開業していた佐藤重の養子となりました。明治31年(1898)に東京歯科医学院(現・東京歯科大学)を卒業後、さらに、歯学を学ぶため明治33年(1900)から36年までアメリカに留学し、レーキフォレスト大学歯科医学部(後のロヨラ大学歯科医学部)、シカゴ大学ラッシュ医科大学(後のシカゴ大学医学部)を卒業しています。
帰国後は、母校の東京歯科医学専門学校教授や南満州鉄道大連病院歯科口腔外科医長などを務めましたが、大正2年(1913)に養父佐藤重が逝去したため、佐藤歯科医院を継ぎました。

東洋歯科医学校での講義風景

東洋歯科医学校での講義風景

明治44年(1911)、文部省歯科医術開業試験委員となっていた佐藤は、受験生の知識が歯科学のみに集中していることに疑問を持ち、歯科医師養成のためには、適切な教育機関が必要であると考えました。そこで、大正4年に自ら予備校的な臨床試問会を開設し、大正5年4月には、日本橋区(現中央区)の東京医会本部内に東洋歯科医学校を創設したのです。同校の創設の目的は、歯科学を単に歯や口腔だけに止めず、基礎医学との関係においてとらえ、豊かな人間性を育む教育を行うことでした。

日本大学との合併、専門部歯科へ

佐藤は、「医歯一元論」の立場から、歯科の教育をさらに前進させるには、医学科を設置する必要があると考えていました。しかし、東洋歯科医学校は、大正9年(1920)に、駿河台に独立校舎を設置し、「専門学校令」による東洋歯科医学専門学校に昇格したとはいえ、経営は不安定で、とても医科を設置する余裕はありませんでした。

一方、その頃日本大学理事山岡萬之助は、日本大学を総合大学に発展させるには、医学科の設置は不可欠であると考えていました。そこで、佐藤と山岡とが相談し、東洋歯科医学専門学校を日本大学に合併し、これを基盤として、医学科を設置するということで意見がまとまりました。大正10年に同校は日本大学と合併し専門部歯科となりました。

無試験開業資格の指定認可に向けて奔走

合併後、佐藤は卒業生の無試験開業資格の獲得に動き始めました。この資格は、すでに他の歯学専門学校3校は認められていましたので、これを得ることができなければ、学生募集にも大きな影響を及ぼし、ひいては専門部歯科の存続にも関わる重大な問題でした。
施設の充実のため、校舎・付属歯科病院の拡張工事を実施し、大正11年12月に、文部省に申請書を提出しました。ところが、審査中の大正12年9月1日、突如として起こった関東大震災により、校舎・付属病院などすべての施設・設備を失いました。これにより早期の無試験による開業資格の認可は絶望的となってしまったのです。

日本大学専門部歯科校舎(昭和8年)

日本大学専門部歯科校舎(昭和8年)

しかし、この不運を乗り越えて、教職員・学生・校友が一体となり、再び資格獲得の運動を始めました。大正13年1月に駿河台にバラックながら仮校舎を建設し、翌年には鉄筋コンクリートによる校舎・歯科病院を完成させる目途も立ったので、大正13年5月に再度の指定申請書を提出しました。大正13年8月、ようやく日本大学専門部歯科は、無試験による開業資格の指定を認可を受けることができました。

大正13年9月、専門学校昇格後の最初の卒業式が挙行され、無試験開業資格の認可取得の祝賀会が開催されました。卒業生・在校生ら350名を含め、来賓・教職員出席の下で、佐藤は次のように述べています。

大学理事者、わが教職員、学生、校友各位のすべてが、各自の立場においてこそ、相違がありましたが、皆誠心誠意この当面の指定問題に尽してくれたのであります。わが日大歯科の指定は、かくのごとく人々の心の誠によって築き上げられたのであります。ゆえにわたくしどもは指定ももちろん嬉しいのでありますが、さらにこの指定を築きあげてくれたところの人々の、心の誠を喜ぶのであります。これは将来ともにわが日大歯科の誇りとして、わが歴史を飾り、これをもって進んでいったなら、わが国否、全世界において有数なる歯科医育機関となり得ぬことはないことを信ずるのであります。

そして、佐藤と山岡が構想した専門部医学科は、大正14年4月に開校し、その後も佐藤は多年にわたって医学科の育成にも尽力しました。さらに、昭和18年(1943)には学長、昭和21年には理事長に就任し、大学全体の運営にかかわる要職も歴任しました。

佐藤の臨床講義(昭和8年頃)

佐藤の臨床講義(昭和8年頃)

私立歯科大学初の大学院設置へ

戦後、歯科界にも大きな改革の波が押し寄せました。歯科医学専門学校卒業生の無試験による歯科医師免許は廃止され、昭和21年(1946)から、国家試験受験が義務付けられたのです。
一方、GHQ(連合国軍総司令部)の指導により、歯科医学専門学校の大学昇格が検討され、教員・校地・校舎・設備などに関して厳しい条件が設けられました。これを満たすには大変な努力を要しましたが、昭和22年6月に歯学部に昇格し、旧制の専門学校から、大学に昇格した6歯科大学の一つになることができました。しかし、1年前に私立では東京歯科大学が昇格していたことから、佐藤は大学院の設置では他大学の遅れを取ることがないよう情熱を注ぎました。

歯学部入学式で挨拶する佐藤(昭和29年4月)

歯学部入学式で挨拶する佐藤(昭和29年4月)

そこで、昭和31年(1956)3月に新制の第一期生の卒業に合わせて大学院を設置することを計画し、大学院の校舎建設のために隣接地約700坪を入手しました。建設資金は、当初1億5000万円の予算を見込んでいましたが、文部省の大学院設置基準を満たすためには、予想を上回る2億5000万円が必要でした。そのため半額の1億2500万円は同窓生の寄付に頼らざるを得ない事態となりました。

歯学部大学院校舎

歯学部大学院校舎

この時佐藤は、70歳半ばを超えていましたが、全国の同窓生を訪ね歩き、歯学部発展のためには大学院が必要であることを説き、一人に付き3万円の寄付を募りました。このような佐藤をはじめとする関係者の情熱と卒業生の支援により、大学院歯学研究科は昭和31年3月に文部省から認可を受けました。同研究科は、国立の東京医科歯科大学に次いで2番目の開設であり、私立歯科大学としては最初の大学院でした。大学院校舎も昭和31年6月に完成しました。

この頃、日本大学企画委員会委員長であった古田重二良は、各学部がその特色を発揮して、私学の中で一番となるよう強く要望していましたが、医歯学系大学の中で、いち早く大学院を設置した歯学部は、医学部とともに私学の中で一番の座を占めていると高く評価しています。

引き継がれる理念

現在、佐藤が東洋歯科医学校を創立した時の理念である、医学的見地に立った「歯科医師としての技術的な研鑽と豊かな人間性の醸成」は、日本大学歯学部・松戸歯学部に継承されています。卒業生は国の内外で活躍し、わが国の歯科医療・歯科医学に大きく貢献しています。

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