日本大学の歴史

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独学者の慈父 澤野 民治 Tamigi Sawano

1878年生~1953年没

澤野 民治

(『日本法制学会80年史』より)

日本大学は、創立から昭和30年代初め頃までは、夜間部の学生の占める割合が高く、働きながら学ぶ学生が多かったことが特色の一つです。夜間部では、帝国大学教授など当代一流の学者の講義を聞くことができ、働きながら学ぶ学生にとっては大変魅力的でした。
そのため向学心に燃えた多種多様な学生が集まり、彼らは夜間部にあっても昼間部には負けないという自負心を持ち、いたって意気軒昂で人間的つながりも強固でした。
現在の日本大学の教育の理念と目的である、「自主創造」につながる「独立自営ノ学風」は、苦しい環境に負けず自らの道を自ら切り開いた、このような学生たちによって築かれていきました。
彼らは、自らの体験から、卒業後も苦学生に対して理解を示し、なかでも独学者に対して絶大な支援を行っていたのが澤野民治でした。

日本大学法制学会を設立

日本橋浜町の日本大学法制学会事務所(『日本法制学会80年史』より)

日本橋浜町の日本大学法制学会事務所
(『日本法制学会80年史』より)

澤野は、明治10年(1877)に北海道函館に生まれ、明治41年(1908)に日本大学高等師範部を卒業しました。初め政治家になることを志し、勝田主計(しょうだかずえ)大蔵大臣の秘書官を務めたこともあります。大正2年(1913)3月に日本大学教授山岡萬之助・理事石渡敏一(いしわたびんいち)らとともに、日本大学法制学会を設立しました。

法制学会の活動目的の一つは、国民に法律知識を普及させることにありました。当時の法律用語は文語体で書かれていたため、表現もむずかしく、法律の専門家でなければなかなか理解できないものでした。そこで法律をだれにでも学べるものとするため、法律用語を口語体で記述した『普通文官養成講義録』第1号(大正2年)を発行しました。また、大正12年には、社会的弱者を保護救済するため、法制学会出身の弁護士らによって、「無料民衆法律相談所」を設置し、法律問題や人事問題の相談に応じました。

山岡萬之助(山岡記念文化財団蔵)と、山岡研究室の黒板

山岡萬之助(山岡記念文化財団蔵)と、
山岡研究室の黒板

もう一つの活動目的は、地方にあって、向学心を持ちながらも、経済的に恵まれない青少年を支援するため、通信教育によって勉学の機会を与えることにありました。澤野の考えに賛同したのが山岡萬之助と石渡敏一でした。山岡は苦学して日本大学教授になった経験から、勉強する機会に恵まれない青少年の教育について理解がありました。法制学会を設立した大正2年は、山岡がちょうど日本大学学監に就任した時でもあり、山岡は自らも、日本大学研究室(通称山岡研究室)を設置し、国家試験を志す学生を熱心に指導しています。
石渡は、東京控訴院検事、大審院検事などをつとめるかたわら、明治23年に日本法律学校講師となり、明治42年(1909)には日本大学理事に就任しました。

独学者に法曹の道を開く

日本大学法制学会の会員の多くは普通文官試験の受験者でしたが、法曹をめざす者もいました。大正の初め頃、帝国大学法科生は、卒業後に判・検事の任用、弁護士の資格を無試験によって得ていましたが、私立大学の法科生に対しては国家試験があり、それに合格することは非常に困難なことでした。ましてや、大学を卒業していない独学者にとっては、はるかに遠い道のりでした。こうした状況に対し、澤野らは独学者にも、法曹の道の進む機会を与えようとしたのです。

大正7年(1919)に高等試験令が改正されました。この改正により、従来、帝国大学法科卒業者のみに与えられていた特権は廃止され、判・検事、弁護士となるには、私立大学と同じように国家試験を受けることとなりました。

高等試験は予備試験と本試験の二段階からなり、専門学校・大学を卒業すれば予備試験は免除されました。独学者でも、文部省の認める「専門学校入学検定試験」などに合格すれば、予備試験を受けることができ、さらに本試験を受け、高等官吏や判事・検事・弁護士になることができました。しかし、高等試験令改正後も、独学者にとって予備試験資格を得るまでにも、いくつもの難しい試験を突破しなければならず、その道程は大変険しいものであることに変わりはありませんでした。

法制学会は、このような独学者の立場をよく理解して熱心に指導し、大正11年には、同会の会員5名を弁護士試験に合格させることができました。その実績から法制学会に入会する者が増加したことから、大正15年には日本大学から独立し、日本通信大学法制学会と称するようになりました。この時、第2代会長に勝田主計が就任し、事務所も日本橋に移転しました。

独学者を献身的にサポート

昭和3年(1928)には、澤野が法制学会の第3代会長に就任しました。この頃には会員・会友は3万人を越え、澤野は彼らのために献身的に尽しました。
当時、法制学会が発行し、普通文官試験受験者にとって必須の参考書は、『試験問題答案集』、『受験案内と勉強法』、『法律経済述語辞典』、『口述試験必修法』など、20種類以上にも達していました。澤野は、これらをほとんど実費に近い価格で配布し、地方会員で貧窮な者には、講義録を半年または1年無償で貸与したこともありました。さらに、学費に窮する者には職を探し、あるいは書生として自宅に住まわせて日本大学に通わせました。合格の見込みのある者に対しては、月々一定の額を支給もしくは貸与しました。澤野のまわりには多くの独学者が集まり、日本橋箱崎町にあった澤野の自宅は、「箱崎塾」と呼ばれました。

また、「講義録」だけでなく、機関雑誌『法制』を発行して、成功者の体験を掲載し、この中で読者のあらゆる相談にも応じました。そして、機会があるごとに講演を行い、彼らを励ましました。

昭和6年高等文官試験合格祝賀会記念写真、前列中央が澤野民治(『日本法制学会80年史』より)

昭和6年高等文官試験合格祝賀会記念写真、前列中央が澤野民治(『日本法制学会80年史』より)

以上のような澤野民治の献身的な努力により、多くの独学者が官界・法曹界などに進んでいます。

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