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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

人生の師 吉田松陰との出会い

松下村塾に学ぶ

山田顕義(市之允)は、父顕行から素読・書道の手ほどきを受け、13歳のとき藩校明倫館に入学していますが、14歳になった安政4年(1857)頃、伯父山田亦介(吉田松陰の武芸の師)の推薦により松下村塾に入門しました。

松下村塾

松下村塾

吉田松陰(山口県文書館蔵)

吉田松陰(山口県文書館蔵)

吉田松陰は、長州藩士であり、藩校明倫館で山鹿流兵学を教授していましたが、安政元年(1854)に伊豆下田で外国船への密航に失敗して蟄居(ちっきょ)の身となり、安政3年より幽閉されていた実家の部屋で松下村塾を開きました。松陰が村下村塾で教えていた期間は安政5年12月までのわずか2年10ヵ月でしたが、この間に92名が来塾・入門しており、顕義もその1人でした。

松下村塾ではほとんどが個別教育で、国学を学ぶ者、歴史を学ぶ者、漢籍を読む者などさまざまでした。門弟たちは師松陰とともに米を搗き、薪を割り、水を汲みながら古今聖人の逸話を聴いたり、時事問題を論じるなど、村塾では個性尊重の教育に基づき、しかも協同・勤労精神を養ったのでした。

また、松陰は門弟たちを「諸友」と呼び、わが友・同志として接しました。このような同志的結合のなかで、松陰の思想や信念が長州藩の若者たちを魅了し、松陰の死後も強い影響力を与えたのです。
当時の松下村塾には高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・品川弥二郎ら、幕末維新史を彩る志士たちがおり、顕義は同門の先輩たちとの親交を通して、後年大成する素地を養ったのです。

扇面に記された立志

山田顕義(市之允)が師吉田松陰から教えを受けたのは、安政4〜5年にかけてのわずか1年余りでした。

安政5年(1858)、幕府が違勅調印したことに憤慨した松陰は、同志と血盟して幕府老中間部詮勝の暗殺を企て、その案文を藩政府へ提出して支援を求めました。しかし、松陰の過激な言動を危惧した藩当局は、松陰をふたたび野山獄へ収容します。折りしも、幕府大老職に就いた井伊直弼は安政の大獄を断行し、松陰も再び江戸に召喚され、江戸伝馬町の牢内で処刑されました。

顕義が松下村塾に入門した時期というのは、まさに幕末へ向けて風雲急を告げる時期でした。
顕義は松陰の教えをまもりよく勉強したようで、国木田独歩が、かつて松下村塾で助教をしていた富永有隣を訪れたときの聞き書きをまとめていますが、富永は「市イーは中々よく読む子であった」と山田市之允の勤勉振りを振り返っています。

そうした山田市之允が元服を迎えるにあたって、師松陰は「与山田生」と題した漢詩を扇面に揮毫して授け、立志の目標を示したのでした。

吉田松陰が山田顕義に送った扇面

吉田松陰が山田顕義に送った扇面塾

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