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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

戊辰戦争での活躍

鳥羽伏見から北越へ

鞠生の松原(防府市)。京都守護に向かう部隊が軍事演習を行った地。慶応3年11月25日に同地の神社で戦勝を祈願した後、乗艦した。

鞠生の松原(防府市)。京都守護に向かう部隊が軍事演習を行った地。慶応3年11月25日に同地の神社で戦勝を祈願した後、乗艦した。

慶応3年(1867)11月、山田顕義は、長州藩先鋒隊の総隊長として三田尻(現山口県防府市)を出発し、上洛。慶応4年1月、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが起こると、在京長州藩諸隊の指揮官として、1000余名の長州藩兵を率いることになりました。長州藩勢は、伏見口にあって京を守り、約1万の幕府軍を退けました。その後、顕義と麾下の部隊は、大坂、京の守備にあたり、4月に三田尻に凱旋しました。

その頃、江戸無血開城を果たし、上野の戦いで彰義隊を破った新政府軍は、会津藩を盟主とする奥羽越列藩同盟諸藩との戦いに入りました。東北方面に先んじて、新潟方面で起こった越後戦争は、新たに北陸道鎮撫総督参謀となった山県狂介(有朋)が、奇兵隊を率いて、5月19日に長岡城を占拠しました。しかし、ガトリング砲2門などの最新兵器を装備する、長岡藩兵を主力とする精鋭兵に手を焼き、新政府軍は守勢に立たされました。

その戦局を打開すべく、顕義は、前年にイギリスで竣工したばかりの長州藩の新鋭艦「丁卯丸」に乗組みを命じられ、5月、薩摩艦「乾行丸」・筑前艦「大鵬丸」も指揮下に入れて馬関(下関)を出航、越後海域に向かいました。顕義は山県に協力し、同方面での戦闘を海軍力によって支援することになりました。

新政府軍参謀 山田市之允

柏崎に拠点を置いた新政府軍は、列藩同盟軍の海からの補給路を完全に遮断するためには、新潟港を手中に収める必要がありました。山田顕義は、列藩同盟軍背後からの上陸による「衝背作戦」を発案し、実行に移されます。柏崎に、この作戦のための兵員を乗せた輸送船が入港した慶応4年(1868)7月21日、顕義は越後口海軍参謀を命じられました。25日、官軍は占拠した長岡城を列藩同盟軍に奪還されますが、同日、衝背部隊は阿賀野川口東に位置する松ヶ崎と大夫浜に上陸。同盟軍の退路を断つとともに新潟を占領し、29日には、再度長岡城を占拠しました。

8月下旬、顕義は増援要請のため京に赴きましたが、長州藩も余力がなく、増派はままなりませんでした。9月、会津藩が降伏し他の東北諸藩もこれに続いたため、戦略目標は変更となりました。幕府海軍副総裁であった榎本武揚は、この間、指揮下の艦隊を率いて江戸を脱出、会津藩などの残存兵力を吸収して、10月には蝦夷地へ上陸、新政府の箱館府が置かれていた五稜郭を占拠しました。

五稜郭(北海道函館市/函館国際観光コンベンション協会提供)

五稜郭(北海道函館市/函館国際観光コンベンション協会提供)

箱館戦争官軍上陸跡地(北海道爾志郡乙部町)

箱館戦争官軍上陸跡地
(北海道爾志郡乙部町)

一方、再度北陸海域に向かった顕義は、佐渡を経由して土崎(秋田)に上陸しましたが、明治政府は、榎本軍の動きに対応するため青森に兵力を集結。顕義も弘前を経て同地へ向い、11月、青森口陸軍参謀に任ぜられました。

榎本たち旧幕臣と列藩同盟軍の生き残りは蝦夷島政府を樹立して、新政府からの独立を試みました。明治2年(1869)4月、新政府軍は箱館攻撃を開始。顕義は海軍参謀も兼ね、約1,500名が3隻の運送船に分乗して青森を出航、江差北方の乙部村に上陸しました。

顕義は部隊を4つに分けて五稜郭を目指し、自らは主力を率いて箱館に迫りました。榎本軍の抵抗は激しいものでしたが、海軍の支援も得て、新政府軍は5月上旬には、箱館周辺に集結しました。11日から陸海共同しての総攻撃が開始され、18日、五稜郭は陥落し、戊辰戦争は終結しました。

御軍政御用留

御軍政御用留

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