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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

陸軍創設への貢献

大村益次郎の遺志を継いで

山田顕義(戊辰戦争の頃)

山田顕義(戊辰戦争の頃)

「戊辰戦争」終結後の明治2年(1869)7月、政府組織は二官六省に改編にされ、軍務担当の役所としては兵部省が設置されました。山田顕義は兵部大丞(省のナンバー4)に任ぜられ、大輔(次官)大村益次郎を補佐して、彼の国民皆兵制に基づいた軍備・軍制の整備を推進しましたが、参議大久保利通らの薩摩藩を中心とした勢力とは、対立することになりました。11月に大村が亡くなると、山田は、軍事行政の実務上の責任者として、また大村派の盟主として、彼の政策を引き継ぎ、新たな国軍の基礎造りに着手しました。

それには「Général d’armée」「Lieutenant」「Sergent」などのフランス陸軍の階級名称に、それぞれ「大将」「中尉」「軍曹」といった律令制の役職名を適用させるなど、軍事制度の基本的な形作りから、大阪城内への兵学寮(陸軍士官学校の前身)や大砲製造所(砲兵工廠の前身)の設置といった、軍備の根幹となることまで多岐にわたりましたが、その多くは一から始めなければなりませんでした。

顕義は当初、海軍も合わせて担当していました。そして海軍力整備に関しては、「戊辰戦争」での海軍参謀などの経験から、軍艦建造よりも、それを運用するのに必要な士官となる人材の養成を、第一と考えていました。これは陸軍についても同様で、明治3年10月には、砲兵学や給養学などヨーロッパの最新の軍事学を修得させるために、兵学寮生徒10名をフランスに派遣しました。この中には、参謀第1号で陸軍省軍務局第一軍事課長となった小坂千尋陸軍歩兵中佐や、築城学や工兵学を学び、後に陸軍砲工学校長となった小国磐陸軍少将などがいました。

フランスで陸軍留学生と(中列左から2人目、小国磐。同5人目、山田顕義。同列左端、小坂千尋)

フランスで陸軍留学生と(中列左から5人目、山田顕義。『小坂千尋小伝』より)

同月、軍の兵式が制定されました。兵式に関しては、大久保利通ら薩摩派は、陸海軍共イギリス式を提唱していましたが、彼らの主張は一部退けられて、陸軍に関しては、幕府や山口藩で採用されていた、フランス式が採用されることになりました(海軍はイギリス式)。この頃、松下村塾以来の朋友であった山県有朋が、ヨーロッパから帰国して兵部少輔となりました。当初山県は、これまで陸軍軍政を指導してきた山田の意を汲んで、上司として彼を助ける立場をとりました。

陸軍中央を去る

山田顕義フランス語名刺 陸軍少将時代に作成したと思われる山田顕義のものとされる名刺。佐賀県立図書館が所蔵

山田顕義フランス語名刺
陸軍少将時代に作成したと思われる山田顕義のものとされる名刺。佐賀県立図書館が所蔵

明治4年7月、陸軍少将に任ぜられた山田は、岩倉使節団の兵部省理事官(主席調査官)となって、11月にはヨーロッパの軍事制度の調査・研究に向かいました。6年6月に帰国した山田は、報告書をまとめ上げました、そこには、軍事力整備の前提として、法律や教育組織など、国家を支える諸制度の整備が必要との意見が述べられていました。

また、同年発布された徴兵令に関しても、制度には賛成ではありましたが、国民がその意図を理解できないうちには、実施は時期尚早で延期すべきとありました。こうした考えは、陸軍卿となって陸軍省(兵部省は5年4月に廃止され、陸軍省と海軍省が設置された)の実権を握り、軍備拡張を目指していた、山県有朋陸軍中将の方針とは対立することになりました。

帰国後山田に与えられたポストは、当時6ヵ所しかなかった鎮台の指揮官の1人東京鎮台司令長官で、軍人として栄誉ある地位ではありましたが、軍政の中核からは離れた職務でした。翌7年7月、山田は司法大輔となり、以降、陸軍軍政の表舞台からは、退くことになりました。

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