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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

司法への道と法典編纂

軍人からの転身

司法省(明治28年竣工)

司法省(明治28年竣工)

幕末に結ばれた欧米諸国との不平等な条約を改正することは、明治政府の最重要課題でした。欧米と対等な交渉をするためにも、日本における近代法の整備が急務となりました。
山田顕義は岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国の後、司法大輔(次官)の職に就き、以後日本の近代法整備に尽力します。

明治8年(1875)には刑法編纂委員長となり、旧刑法(明治13年公布)及び治罪法(明治13年公布、のちの刑事訴訟法)の編纂にあたりました。明治16年に内務卿から司法卿に転任して以降は、法典編纂事業を主導する立場となりました。顕義がまず着手したことは、裁判官の資格制度を整理し判事登用規則を実現させることでした。これにより、無資格の縁故採用を廃止し、法学教育を受けた人材を採用する法制が具体化されることになりました。

法典編纂と法典論争

明治18年(1885)12月、内閣制度の発足に伴い、山田顕義は日本で最初の司法大臣に就任します。明治20年、外務省に一時移っていた法律取調委員会が再び司法省に移管されると、顕義は法律取調委員長に就任します。民法はフランス人のボアソナードが、商法はドイツ人のロエスレルが原案の起草にあたりました。法律取調委員会では、民法・商法・民事訴訟法、裁判所構成法などの草案が審議され、顕義自身が議事を整理するほど事業に没頭しました。金子堅太郎によると、委員会は公務を終えた午後4時以降から始まり、夕食後さらに会議が継続されることもよくあったというほどの繁忙ぶりでした。

山田顕義フランス語名刺 陸軍少将時代に作成したと思われる山田顕義のものとされる名刺。佐賀県立図書館が所蔵

山田顕義(明治20年代)

ボアソナード(1825~1910)。フランス生まれ、明治6年に来日。政府の法律顧問として尽力

ボアソナード(1825~1910)。フランス生まれ、明治6年に来日。政府の法律顧問として尽力(法政大学史委員会提供)

ロエスレル太政官へ雇換条約書(国立公文書館蔵)

ロエスレル太政官へ雇換条約書(国立公文書館蔵)

顕義が全力を注いだ民法・商法・民事訴訟法は明治23年(1890)に公布されます。しかし、欧米と日本では習慣が異なり、とくに民法は日本の伝統・習慣をよく照らし合わせてから施行するべきだという、いわゆる法典論争が起こります。この論争は制定法主義のフランス法派(断行派)と判例法主義のイギリス法派(延期派)との法理論の対立というだけでなく、薩長閥政治に対する議会の反発など当時の政治情勢上の問題も含まれていました。この論争は延期派が勝利を得ることとなり、明治25年、ついには議会の否決により民法・商法の施行は延期となりました。

大日本帝国憲法署名部分(国立公文書館蔵)司法大臣として山田顕義の署名が確認できます

大日本帝国憲法署名部分(国立公文書館蔵)
司法大臣として山田顕義の署名が確認できます

山田顕義が直接かかわった民法・商法が施行されなかったとはいえ、彼の法典の編纂に掛けた後半生は、決して徒労に終わったわけではありません。顕義の死後、明治31年に新民法、明治32年に新商法が施行されますが、旧法というたたき台なくしては実現不可能であったことを考えると、日本の近代法成立における顕義の功績は大きいものといえるでしょう。

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