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学祖 山田 顕義 Akiyoshi Yamada

1844年生~1892年没

皇典講究所の設立と改革

皇典講究所所長に就任

明治15年(1882)8月、明治政府の神道政策の一環として、古典(国典)研究と神官を養成する機関として皇典講究所が設立され、神道総裁有栖川宮幟仁親王が皇典講究所総裁に就任しました。
当時、山田顕義は参議兼内務卿でしたが、吉田松陰や大叔父村田清風(萩藩の藩政改革者)の思想を受け継ぎ、政府首脳部の中でも神道や神社に対する尊崇の念がとりわけ強く、前任の内務卿松方正義や神道副総裁岩下方平らとはかって、皇典講究所設立にも積極的に関わっていました。

明治14年、神道界を二分した祭神論争が勅裁により終結すると、内務省の内部に神道界を再編しようと模索する動きが出てきました。この年10月、内務卿に就任した顕義は、祭神論争の反省を踏まえ、政教分離思想を取り入れた純粋な国典研究と、神官養成を目的とした皇典講究所の設立を認可したのです。顕義は発足以降もその運営を賛助しており、総裁有栖川宮幟仁親王が逝去すると、後任として、設立・発展に尽力した顕義を、所長として迎えることにしました。

皇典講究所飯田町校舎(明治32年 『風俗画報』臨時増刊第191号より)

皇典講究所飯田町校舎(明治32年 『風俗画報』臨時増刊第191号より)

皇典講究所改革

明治22年(1889)1月、司法大臣の現職のまま皇典講究所所長に就任した山田顕義は、皇典講究所の改革を推し進めます。顕義の考える改革とは、日本の人種・慣習・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするというもので、この考えは顕義が司法大臣として進めていた法典整備に合わせて、その基礎となる国典の研究を推進することにあったのです。

『皇典講究所講演』第1号(明治22年2月)

『皇典講究所講演』第1号(明治22年2月)

顕義は毎週水曜日に皇典講究所に通っていましたが、ある日、司法大臣官邸に講究所所員一同を招き「諸君は乞食しても此の事を成し上げんとの覚悟はありや」と問いかけたといわれ、皇典講究所に期待するところが大きかったことが伺われます。

そして、国典・国史・国法を一緒に研究する教育機関を、皇典講究所の中に設置しようと計画していたのです。そのため、国学者や神官が運営していた皇典講究所の事業に、顕義の影響力がきわめて強い、司法省の官僚が協力するようになっていきました。
この時期の法学教育は欧米法を教授することが主流でしたが、大日本帝国憲法が発布され、諸法典の整備も進んできた明治22年頃には、現実に即した日本法学の研究が喫緊の課題となり、司法大臣山田顕義もまた、日本法律を教授する学校の設立を痛感していました。

山田顕義の邸宅と本学キャンパスとの意外な接点

欧米諸国を歴訪し、明治6年秋に帰国した山田顕義は、翌明治7年からは、神田駿河台北甲賀町に住んだようです。北甲賀町は現在の住所では駿河台1丁目・3丁目あたりです。実はこのあたりは、本学の理工学部・歯学部・日本大学病院がある駿河台キャンパス付近となります。

明治13年に出された山田顕義宛書簡の封筒

明治13年に出された山田顕義宛書簡の封筒

明治8年(1875)には、麹町区飯田町6丁目に顕義の新邸が落成しました。飯田町というのは、本学にとってはとても重要な場所でもあります。明治22年(1889)、本学の前身である日本法律学校が創立された際、校舎として使用したのが、飯田町5丁目にあった皇典講究所でした(明治22年より山田顕義が所長に就任)。

明治22年(1889)には、顕義の音羽別邸地に洋館が建造され、翌年落成しました。現在の講談社社屋から裏手の高台にかけての土地でその広さは2万坪と『山田顕義伝』に記されています。この音羽の洋館には、明治23年に明治天皇が行幸されています。
この音羽の地には、学祖山田顕義の墓がある護国寺、そして、隣接地には日本大学の付属校である豊山高等学校・中学校が設置されています。

音羽の山田邸(明治23年竣工、設計渡辺譲)出典『清水方建築家屋撮影』(明治24年版、清水建設蔵)

音羽の山田邸(明治23年竣工、設計渡辺譲)
出典『清水方建築家屋撮影』(明治24年版、清水建設蔵)

このように、顕義が住んだ御茶ノ水、飯田橋、護国寺付近には本学関係施設が設置されていますが、いずれも山田顕義から本学に譲られた土地ではありません。よって、直接的な関係はないのですが、学祖邸宅地付近に本学の関係施設が立地しているということには、何か不思議な縁を感じます。創立から130年を経た日本大学には、創立期から受け継がれてきた建学の精神だけではなく、校舎が建つ地域にも学祖山田顕義と深いゆかりがあるといえるのではないでしょうか。

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