現役引退 惜別インタビュー 原点回顧 プロ野球 村田 修一選手

現役引退 惜別インタビュー 原点回顧 プロ野球 村田 修一選手現役引退 惜別インタビュー 原点回顧 プロ野球 村田 修一選手

9月9日(日)、日本を代表する一人のスラッガーが16年のプロ野球人生にピリオドを打った。横浜ベイスターズ(現・横浜DeNA)で9年、読売ジャイアンツで6年、チームの主軸として活躍し、北京五輪や第2回ワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表の4番も務めた村田修一選手。勝負強い打撃でチームの勝利に貢献し、“男・村田”の呼び名で多くのファンに愛されてきた名プレーヤーだった。今季所属した独立リーグのルートインBCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスのシーズン最終戦を前に、これまでの野球人生を振り返り、様々な思い出などを語ってもらった。

9月9日(日)、引退試合となった栃木ゴールデンブレーブスの今季最終戦には、約6,000人のファンが本拠地球場に詰めかけ、村田選手の現役引退を惜しんだ。
試合後のセレモニーで花束を贈られて感極まるも、「本当にいい野球人生だった。今日、満員の球場で野球ができて幸せだった」。

―「現役引退」という節目を迎え、今の気持ちは?

8月1日の記者会見時に、「引退という2文字を使いたくない」と言ったのは、「9月9日まで現役選手としてやりたい」ということを伝えたかったからです。でも、いよいよ明日がその日になると思うと寂しさはありますが、目いっぱい、悔いなく野球をやってこれたなという感じです。

―硬式野球を始めたのはボーイズリーグからなんですね。

中学生の時に粕屋フェニックス(現・福岡粕屋ボーイズ)に入りましたが、公式戦0勝のピッチャーでした。でも、ご飯はめっちゃ食べていましたね(笑)。
 
―中学卒業後、東福岡高校へ行くことを決めた理由は?

学校の教師をしていた母親から、野球も強くて勉強ができる環境があると教えてもらい、東福岡を選びました。入学する3年前に甲子園大会に出場していて、ちょっと名前が売れてきた学校だったので、自分が入学して東福岡を全国区にしたいと思っていました。
その言葉通り、140kmを超える速球を武器にエースとなった村田選手は、1998年に春夏連続で甲子園に出場。選抜大会は初戦・出雲北陵高校(島根県)に5対0で完封勝ちし、東福岡高校に甲子園初勝利をもたらした。続く3回戦は、松坂大輔投手(現・中日)を擁する横浜高校(神奈川県)と対戦。内外角を丁寧に投げ分けて粘投するも、後半に松坂・後藤(横浜DeNA・引退)に打たれ3失点。打線も松坂の前に2安打13三振と翻弄され、完敗した。
5年ぶり2度目の出場となった夏の選手権大会は、豊田大谷高校(愛知県)に4対6で惜敗し初戦敗退となった。

横浜高・松坂投手との対戦は4打数無安打だった。

―甲子園、そして松坂投手とは?

甲子園に出られたことで僕の野球人生が開けたと思いますね。野球に対する心構え、体の準備、心の準備ができました。松坂との対戦は、高校生の中に一人だけプロがいるみたいな感覚…。彼に出会い、「投手としては松坂に勝てない」と思って投手を辞めました。

―中学時代、高校時代を振り返って思うことは?

苦しい練習もたくさんあったし、理不尽な思いもたくさんしましたが、今はその経験がすごく役に立っています。だから、野球少年たちには誰よりも野球を大好きになってもらいたい。野球が好きなら、人に負けたくない、うまくなりたいという気持ちが湧いてきて辛い練習にも耐えていけるし、練習の取り組みや姿勢が変わります。

―日大に入学した当時(1999年)の野球部はどんな様子でしたか?

入学した頃は東都の2部から1部に上がったばかりの時だったので、みんなが「また2部に降格することだけは絶対阻止するんだ」という気持ちでやっていました。他の大学に能力が高い選手が何人もいましたので、とにかく負けることなく、優勝よりも2部に落ちないことのほうが最優先でしたね。

―大学時代の経験などがプロ入りしてから活きたことは?

入学後に投手から野手に転向しましたが、当時の鈴木(博識)監督から「お前は将来プロに行くのだから、その心意気で練習をやれ」と言われていました。リーグ戦で、前の日の試合で三振してふて腐れていたら、「そんな心構えで野球をするな」って怒られて、次の日はスタメンを外されたこともありました。
右方向へ長打とか本塁打が打てるようになったのも大学時代からですしね。たくさん練習しましたし、させられました(笑)。鈴木監督には「お前の調子のバロメーターは右方向への長打力だ。それができないとプロでは通用しない」とか「今のプロ野球の世界には右投げ右打ちの4番打者が少なくなっている。お前にはそのような選手になってもらいたい」とずっと言われてきましたね。それが、その後の僕のスタイルとなったわけですから、プロ野球選手としての原点は大学時代にあるということです。
あとは寮生活ができたことですかね。初めての寮生活でしたから、やらなければいけないことも多くて、厳しかった。でも、それはそれで人生の経験として良かったと思います。

東都大学リーグ通算104試合出場、打率.275、20本塁打(歴代2位)、70打点、ベストナイン4回。3年秋に、井口資仁(青山学院大・現千葉ロッテ監督)と並ぶ1シーズン8本塁打を記録するなど、リーグ屈指の強打者として活躍。

―大学時代の楽しい思い出、苦しい思い出などは?

練習が厳しかったことなど、いろいろありますけど…楽しいというより、苦しい方が多かったですね。勝敗だけでなく、個人の成績、プロに行くための立ち振る舞いなど、レベルが高くなればなるほど、求められることが高くなる。精神的に随分成長した大学時代だったなと、今思い返します。その経験があったことが、ここまで長くプレーができた一因だと感じています。

2002年秋、自由獲得枠で横浜ベイスターズに入団。即戦力として期待されるも、シーズン当初は三塁手のレギュラーを入団5年目の古木克明選手と競うことになった。奇しくも古木選手は、98年夏の甲子園で敗れた豊田大谷高校の三番打者で、投手・村田からは先制タイムリーを放っていた。
―横浜入団1年目はどうだったのですか?

レギュラーの座を開けて待ってくれるほど、プロは甘くなかったですね。1年目はフル出場ではない(104試合)ですし、本職ではない二塁手もやりました。二軍落ちも経験しましたが、何とか自力でレギュラーポジションをつかみに行って、シーズン後半から三塁手のレギュラーに定着できました。
 

―プロ野球選手としての力の源は何だったのですか?

4番を打つことにこだわっていましたね。当時の4番は佐伯(貴弘)さんが打っていましたが、この選手を抜くこと、4番打者になることにこだわって精進していました。

 

横浜ベイスターズでは2006年からクリーンナップに定着。2007年には全試合「4番・三塁手」で36本塁打を放ち、初の本塁打王に輝く。翌2008年は球団新記録の46本塁打で2年連続の本塁打王を獲得。三塁手として初のベストナインにも選ばれた。

横浜ベイスターズでは2006年からクリーンナップに定着。2007年には全試合「4番・三塁手」で36本塁打を放ち、初の本塁打王に輝く。翌2008年は球団新記録の46本塁打で2年連続の本塁打王を獲得。三塁手として初のベストナインにも選ばれた。

2009年の第2回WBCに出場。(左)予選ラウンドの韓国戦・中国戦で2試合連続本塁打を放つ。(右)第2ラウンドのキューバ戦でも4番・三塁手として2打点を挙げ、侍JAPANの2連覇に貢献。

2009年の第2回WBCに出場。(左)予選ラウンドの韓国戦・中国戦で2試合連続本塁打を放つ。(右)第2ラウンドのキューバ戦でも4番・三塁手として2打点を挙げ、侍JAPANの2連覇に貢献。

巨人対楽天の戦いとなった2013年の日本シリーズ第1戦、8回に相手先発の則本投手から本塁打を放つ。村田選手は第5戦でも、則本投手から本塁打を放つなど活躍した。

―巨人に移籍後、横浜時代に本塁打王を獲得したシーズンと比べ、打撃時の構えのトップの位置が変わったように思いますが…。

横浜時代は、高い所から振り下ろすほうが、インパクトで衝突する時のパワーは一番力が伝わりやすかったので…あの位置で構えていました。あの頃はそれで良かったんです。真っ直ぐと縦の曲りの変化球ばかりでしたが、対応できていましたから。しかし、巨人に入団した頃は、対戦相手の投手の変化球が多彩になってきて、「このままだと率が残せない」と思い、トップの位置を下に下げることにしたんです。

―打撃のスランプに陥った時、追い込まれた状況でどのように対応していましたか?

選手によって2パターンあると思いますね。納得するまで一生懸命にひたすら練習するタイプか、「俺はできる!」と気持ちを前向きに切り替えるタイプか、自分かどっちのタイプかを見極めることが重要ですね。
僕の場合は、心の持ち方を全て前向きに考えるようにしています。「ここで打たなければならない」と追い込むのではなく、「ここで打ったらヒーローになれる」とか、「ここでゲッツー打ったらチャンスがつぶれる」と考えるのではなく「ここでヒットを打てば点が入る」など、気持ちをポジティブな方向へ行くように心掛けていました。
 
―メンタル的な部分ではどうでしたか?

メンタルの強化というのは大切なことですね。野球は勝ち負けがはっきりしているし、嫌なことが多いスポーツですから、それを受け入れる勉強をしないといけないと思います。特に打撃は失敗のほうが多いので、ミスした時にいちいちへこんでいてはやってられないですね。もちろん打ち取られたら、それは悔しいですが…(笑)。

―そういう時にリフレッシュするには?

チームメイトと食事に行くのが良いでしょうね。また、違うスポーツをするというのも良いですね。僕も結構やっていましたよ。チームメイトとサッカーやバスケットをしたり…。野球でしか見えなかったチームメイトの違った一面も見られるし、リフレッシュ効果も抜群です。
 
―村田選手は守備にも定評があり、巨人時代にはゴールデングラブ賞も獲得しましたが…

きれいに捕球して華麗に送球するというよりも、形にはあんまりこだわらずに「アウトにすればいい」という気持ちで守備は行っていましたね。

2017年8月のDeNA戦、先制本塁打を放つ活躍でヒーローインタビューに登場。お立ち台で坂本勇人選手(左)、畠世周投手(中央)と共に笑顔でガッツポーズ。

―今、学生時代とプロの世界を振り返ってみて感じたことは?

学生時代は、失敗しても次がありますが、プロは結果が全てです。形や内容などは関係ありません。結果が全て…だから、“楽しい”というよりも“苦しい”が先に来ましたね。

2002年のドラフト会議では、村田選手の他に、日大から館山昌平投手(ヤクルト3位)、大野隆治捕手(ダイエー5位)、堤内健投手(横浜9位)の3選手が指名を受けてプロ入りを果たしている。
―日大同期でプロ入りした3人との交流はありましたか?

堤内は、ベイスターズでもチームメイトだったので普通に会話していました。隆治(大野)はパ・リーグだったので、当時は交流戦がなかったため、あまり会う機会がなかったですね。館山は同じセ・リーグで試合もしたし、オフシーズンに日大の監督のゴルフコンペで会ったりしていましたけど…。去年、チームが決まらなかった頃に館山から電話があり、その時に「BCリーグへ行こうと思っている。いつNPBに呼ばれてもいいように、しっかり練習しておくから」と伝えました。でも、引退については特に話をしていません。
 

BCリーグ・栃木では、NPB入りを目指す若手選手たちの見本となるべく攻守に溌剌としたプレーを見せ、6月には月間MVPにも輝いた。2018年シーズンの成績は60試合に出場して打率.343、14本塁打、62打点。

BCリーグ・栃木では、NPB入りを目指す若手選手たちの見本となるべく攻守に溌剌としたプレーを見せ、6月には月間MVPにも輝いた。2018年シーズンの成績は60試合に出場して打率.343、14本塁打、62打点。

―日大の後輩である中日・京田選手をどう見ていましたか?

日大からいい選手が入ったというのは聞いていました。ドラゴンズとの試合の時は注意して見ていましたが、スピードがあっていい選手だなと思いました。僕は新人王を獲れなかったので、後輩として新人王を獲ってくれたことはうれしかったですね。
 
―最後に、スポーツ日大の現役選手たちへのエールをお願いします。

やれる立場にいるのであれば、1年でも長くプレーしてもらいたいですし、そこで自分の居場所を確立してもらいたいですね。野球に限らず日大出身の選手たちが頑張ることによって、日大のカブも上がると思いますし、日大に行きたいという子が増えれば、またいろんなスポーツが強くなっていくでしょうから、後輩たちのためにも頑張らないといけないし、母校のためにも頑張ってほしいと思います。
 
―有り難うございました。

 

横浜ベイスターズ時代の仲間達と共に。

横浜ベイスターズ時代の仲間達と共に。

Profile

[むらたしゅういち]1980年生れ。福岡県出身。東福岡高校卒。経済学部卒。
高校時代は投手として3年の春夏に甲子園出場。高校でバッテリーを組んでいた大野隆治選手と共に日大に入学したが、高校通算30本塁打の打棒を活かすべく野手に転向。2年時の2001年春季リーグは主砲として20度目の優勝に貢献。2002年秋に自由獲得枠で横浜ベイスターズに入団。2003年は新人ながら25本塁打。07年・08年は2年連続セ・リーグ本塁打王に輝く。08年は北京五輪、09年は第2回WBCの日本代表に選出されるなど国際舞台でも活躍。12年に巨人に移籍。第76代4番打者に就くなど6シーズンをプレーし、勝負強い打撃と堅実かつ華麗な三塁の守備でファンを魅了。NPB15年間の通算成績は、出場1953試合、1865安打、360本塁打、1123打点、打率.269。2018年はBCリーグ栃木ゴールデンブレーブスでプレーしたが、NPB復帰の期限としていた7月末までにオファーがなかったことで、今シーズンでの現役引退を決断した。