我、プロとして

Vol.9 増田成幸 氏【後編】プロロードレーサー (2008年理工学部航空宇宙工学科卒)

卒業生
2021年02月12日

あきらめずに続けられたのは、やはり自転車が好きだからです

自転車競技部のない高校でロードレーサー人生をスタートさせた増田成幸。そして本学で航空研究会のパイロットとして人力飛行機の日本記録更新に尽力した。後編ではプロロードレーサーとなった彼の競技人生に焦点を当てていこう。

プロロードレーサーの道へ

人力航空機の日本記録を達成した夏から2カ月後、増田の姿は宇都宮にあった。ジャパンカップというロードレースに参加するためだ。

「大学時代のパイロットのトレーニングが、自転車が本当に好きだということを再確認させてくれました。次第に高校時代に成仏したはずのロードレースへの思いが再燃し、僕の夢はエンジニアから自転車選手になることに変わっていったのです」

鳥人間コンテストに向けた大学時代のトレーニングは知らず知らずのうちにロードレースで戦う力を増田に養わせていた。ジャパンカップのアマチュアの部はプロへの登竜門と呼ばれる厳しい大会だ。そのレースで準優勝という好成績を収めることができたのは、大学時代のトレーニングの賜物だろう。

そしてチームミヤタから声が掛かった。

「あまり大きな声では言えないのですが、その時点で大学を留年することが決まっていて、その旨をお伝えしても欲しいと言っていただけたので、お世話になることにしました。夢見ていたプロロードレーサーになることができたのです」

チームミヤタの活動は国内が中心。レースの多くは土日に開催されるため、大学生活との両立もできたようだ。ミヤタには2年間在籍し、研鑽を積んだ。

そして増田は新たなチームへステップアップする。移籍先のエキップアサダは日本初の独立プロチームで、ツール・ド・フランスに出場することを目標としていた。つまり増田の主戦場は日本から本場ヨーロッパへと移ったのだ。

「ヨーロッパのトップカテゴリーは想像以上で、選手の質、レース展開など全てのレベルが違いました。本場のレースを肌で感じたことで、自分自身をアップデートさせるために何が必要か、自然と考えるようになりました」

現在、増田は国内を主戦場とする宇都宮ブリッツェンに在籍している。国内レースでは何度も優勝を果たしているが、一度も満足をしたことはないそうだ。今なお向上心を持って競技に取り組めているのは、ヨーロッパのレースを経験したからに他ならない。

ケガ、病気を乗り越えて

東京五輪への思いを語る増田選手

東京五輪への思いを語る増田選手

増田の競技人生を語る上で避けて通ることができないのが度重なるケガで、骨折は鎖骨、骨盤、背骨など、数え切れない。さらに2017年に患ったバセドウ病は、不屈の精神を持つ増田が引退を考えるほどの大病だった。

しかし彼は幾度となく困難に打ち克った。しかもその度に心も体も強くなり、優勝を重ねたのだ。その姿から『不死鳥』の異名が付いた。

「東京にある国立スポーツ科学センターでリハビリを何度もしました。ひどいときには3カ月ほど泊まり込むこともありましたが、普段できないトレーニングをすることで以前より強くなることができました。他競技の選手と一緒になってリハビリに励んだのは、いい思い出ですし、オリンピックを目指すきっかけにもなりました」

プロ生活をスタートさせた頃、増田が目標としていたのはツール・ド・フランスや世界選手権だった。ロードレースの世界ではオリンピックよりもこの二つの大会が花形で、多くの選手が増田と同じ目標を持つ。

リハビリを共にしたのは柔道、ウエイトリフティング、サッカー、バレーボール、陸上などの選手で、その多くはオリンピアンだった。彼らから話を聞くうちに、増田のオリンピックへの思いが高まっていった。そして東京五輪の開催が決まったのだ。

「2020年は37歳で、選手人生の集大成として東京五輪以上の舞台はないと思いました。リオが終わった瞬間に、東京に向けて何ができるか、何をすべきかをよく考えていましたね」

東京五輪の代表選考は2019年に始まった。ロードレース日本代表は2枠で、選出されるには国内外で開催される国際自転車競技連合(UCI)公認レースに出場し、ポイントを積み上げなければならない。

バセドウ病を克服した増田の調子は上向き、2019年シーズン終了後の順位は1位。2020年3月には2位に順位を落としたものの、五輪代表は射程圏内にあった。しかし、そこで増田を新たな試練が襲う。

新型コロナウイルスの影響で世界中の自転車レースが中止になったのだ。

コロナとの戦い

当初代表選考は2020年5月末までの予定だった、しかし新型コロナウイルスの影響で東京五輪は延期となり、代表選考も10月17日まで期間が延長された。

ヨーロッパでは8月1日にUCIレースが再開し、毎週のように開催されるようになる。一方、日本ではUCIポイントを獲得できるレースが一つもない。

8月1日時点で3位の中根英登選手はヨーロッパを主戦場としており、増田を上回るのは時間の問題だった。

「僕の所属する宇都宮プリッツェンは国内を主戦場にしていますし、簡単に海外へ行くことができない状況でした。これは明らかに不公平だと思い、日本スポーツ裁判機構に選考基準の取り消しを求めたのですが、棄却されてしまいました」

昨夏を思い出してもらいたい。日本だけでなく多くの国が海外からの渡航者の受け入れに慎重になっていた。もちろん国際便の本数も激減。仮に海外へ行けても入国後2週間という隔離措置を取る国が多いことは、日本のニュースでも盛んに報じられていた。

この2週間という隔離措置は増田にとって高い壁となった。

考えてみて欲しい。彼はビジネスや旅行で海外に渡るのではない。アスリートとしてレースに参加するために渡航するのだ。仮にホテルに2週間缶詰めにされるようなことがあれば、コンディションを維持することは難しいだろう。実際にタイの大会へ出場することも検討したが、さまざまな理由から断念せざるを得なかったそうだ。

「代表に選ばれても落ちても、戦わずして終わるのだけは避けたいとずっと考えていました。そして多くの方が僕の思いを汲んでくださり、力になってくれました。ですからスペインの大会に出場が決まったときには本当にうれしかったです」

不死鳥の大逆転劇

スペイン・バスク地方でプルエバ・ビリャフランカ・オルディジアコ・クラシカが開催されたのは2020年10月12日。雨が降り、気温は10℃を下回るという厳しい環境だった。

この日のスタート時点で増田は3位。ライバルの2位中根選手も同レースに出場し、最後の戦いがスタートした。

アップダウンの激しい1周30km超を5周するコースで、最後の2周はさらに大きな上りが追加される。そんな厳しいコースだが、レースは序盤からペースの速い展開となった。

「最初の上りで3分の1はちぎれましたね。ただ序盤から速いレースは僕には向いているので、チャンスはあると思いました」

残り20kmまで先頭集団に食らいついた増田は20位でフィニッシュ。中根選手が未完走で終えたこともあり、増田が再度2位に浮上した。その差はわずか1.8ポイント。不死鳥の名にふさわしい大逆転劇だった。

「持っている力を全てぶつけることができたので、ゴールした瞬間は、高校や大学時代と同じように『これで成仏できる』と思いました。また最後の最後でレースに参加できたことは、僕にとっては奇跡だったので、僕を支えてくださった方々への感謝の気持ちも沸いてきました」

自転車競技部のない高校から始まった増田の自転車人生は、スペインのコースのように平坦なものではなかった。大学時代こそ乗り物は違うが、あきらめることなくペダルを踏み続けたことが、彼の競技人生の集大成となる東京五輪の舞台を作ったのだ。

「ここまであきらめずに続けられたのは、やはり自転車が好きだからです。風を切る感覚、スピード感、ランニングでは難しい遠い場所へ行けるなど、自転車の魅力は無限に広がっているんですよね」

東京五輪でメダルを獲ると公言できるほど、ロードレースの世界は甘くはない。それでも増田は一つでも上の順位を目指し、あきらめることなく走ることを約束してくれた。

東京五輪では、不屈の精神でゴールを目指す不死鳥の姿に是非注目していただきたい。

<プロフィール>
増田成幸(ますだ・なりゆき)

1983年10月23日生まれ。2008年理工学部航空宇宙工学科卒。宮城県出身。
自転車競技部のない東北学院高で自転車競技を始める。本学在学中は航空研究会に所属し、人力飛行機のパイロットとして日本記録樹立に貢献した。
在学中の06年よりチームミヤタでプロロードレーサーとしてのキャリアをスタート。度重なるケガや17年に発症したバセドウ病に悩まされるが、その度に不屈の精神で復帰し、数々のタイトルを獲得したことから不死鳥と称される。
現在は宇都宮ブリッツェンでキャプテンとして活躍。21年に開催される東京五輪代表に選出された。