我、プロとして

Vol.22 生稲洋平 氏【後編】
「くだもの楽園」代表(2001年文理学部社会学科卒)

卒業生
2021年12月09日

ここでしか、自分にしかできない農業で勝負する

料理人から農家に転身し、東京から山形県河北町に移り住んだ生稲氏。彼は今、最上川のほとりに広がる農園「くだもの楽園」を経営し、農家としての夢と目標を実現すべく奔走している。生稲氏が山形で就農してからの15年間の道のり、そして目指す未来とは?

自分が作った野菜が一流レストランのメニューに!

「くだもの楽園」の横を流れる最上川

「くだもの楽園」の横を流れる最上川

2006年に山形へ移り住んだ生稲氏は、県内の果樹農家で1年間研修を受けた後、妻の実家の農園に就農。そこからは妻の両親に教わりながら農業を学んでいった。方言が聞き取れず説明を理解できなかったり、地域の人間関係の濃さに抵抗を感じたりと、新しい環境に戸惑うこともあったが、青年会の活動などを通して少しずつ地域に溶け込み、周りの人たちに助けられながら農家としての経験を積んでいった。

農家になって4年ほどたった頃、河北町で一つのプロジェクトが立ち上がる。国産イタリア野菜にニーズがあると見込んだ商工会の掛け声で、北イタリアと気候が類似する河北町でイタリア野菜を栽培し、特産品として売り出していこうと、商工会、行政、農家を挙げた取り組みがスタートしたのだ。

産直マルシェに出荷される「かほくイタリア野菜」

産直マルシェに出荷される「かほくイタリア野菜」

まず4軒の農家が参加し、さっそくイタリア野菜を栽培。ところが、イタリア野菜を見たことも食べたこともないメンバーは、どうやって使うのか見当が付かない。そこで、イタリア料理の経験がある生稲氏に声が掛かった。生稲氏は収穫したイタリア野菜でイタリア料理を作り、メンバーに食べてもらうことで、イタリア野菜がどのように使われ、どんなおいしさがあるのかを伝えた。

2013年には「企業組合かほくイタリア野菜研究会」として法人化し、本格的に販売を開始。栽培に試行錯誤しながらも売り上げを順調に伸ばしていく。現在は17軒の農家が60品目を栽培し、レストラン県内80店舗、県外約100店舗と直接取引するほか、県内外のデパートなど小売店にも卸すまでになった。取引先には、山形の「アル・ケッチァーノ」、東京の「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」など有名店も名を連ねる。生稲氏はメンバーの一員としてイタリア野菜を栽培するだけでなく、研究会の副理事として「かほくイタリア野菜」の普及拡大に取り組んでいる。

「かほくイタリア野菜」のロゴ

「かほくイタリア野菜」のロゴ

「奥田政行シェフ(「アル・ケッチァーノ」オーナシェフ)や落合務シェフ(「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」オーナーシェフ)といえば、料理人時代の僕にとって雲の上の人。それが今、2人ともこの畑まで野菜を見に来てくれるんですよ。農家になってからの方がイタリアン業界とのつながりが深まった。不思議なもんですね(笑)」

イタリア料理の経験が生かされるだけでなく、「自分が作ったものが、レストランのメニューに載ったら」という夢まで早々にかなってしまった。

「われながら、話が出来過ぎだなって思います」

農業の面白さ、厳しさを体験したその先に

リンゴの色付きを確認する生稲氏

リンゴの色付きを確認する生稲氏

夢は一つかなえたが、全てが順風満帆だったわけではない。生稲氏にとって農業は、やればやるほど面白く、また、やればやるほどに大変さを思い知らされるものだった。

「農業の何が難しいって、稼ぎ方。作物を育てている間はお金が一切入らなくて、現金が入るのは、収穫したのを売ったときだけ。作ったものをどこに販売して、いかに生活できるだけの売り上げを出すか。そこまでできないと、農家としてやっていくのは難しい。野菜や果物を作るのが好きというだけではダメなんです」

農業の現状について話す生稲氏

農業の現状について話す生稲氏

近年の異常気象も農業に追い打ちを掛ける。2020年7月、東北地方を襲った記録的豪雨で全ての農機具とイチゴハウスが浸水被害に遭い、その年の冬は豪雪、この春は遅霜で果樹が大きな打撃を受けた。

「ここ数年、もう毎年こんな調子です。地元の人たちも経験したことのない自然災害が立て続けに起きて、収穫量が激減している」

それでも妻と両親と4人で頑張ってきたが、3年前、高齢で体が利かなくなってきた両親が現場を引退。主力2人がいなくなり、その分を生稲氏が一人でカバーしなければならなくなった。

りんごジュースなどの加工品も手掛ける

りんごジュースなどの加工品も手掛ける

「うちは3月末からイチゴの収穫が始まって、6月にサクランボ、次に桃、秋は稲刈り、リンゴと続いて、雪が降るまでにりんごジュースの加工を終わらせる、というのが年間のルーティーン。合間にイタリア野菜も作ります。両親がいたから回せていたのが、妻と2人になってからは、やれ、サクランボの収穫だ、箱詰めだ、雪が降るまでにリンゴをもぎあげなくちゃと、朝から晩まで走り回って、今をこなすのに精一杯。農家レストランをやりたいとか夢はまだまだたくさんあるのに、新しいことをやる余裕なんて全くなかった。今は体力も気力もあるからいいけど、これを毎年やったら、早晩くたばるなって」

そして生稲氏が最も深刻視するのは、町内の農業従事者が激減していることだ。「くだもの楽園」がある集落でも、農家を継ぐのは4人だけ。このままいけば、町はどこもかしこも耕作放棄地となり、周辺環境は荒れ、害虫や鳥獣害の増加などさまざまな弊害が生じる。

「つまり、うちだけが頑張ればいいという話じゃないんですね。じゃあどうするか。農業をやりたい人を増やすには、今、農家をやってる自分たちが、あるべき農家の見本を見せていかなくちゃいけない。『きつい、儲からない、ハイリスク』な農家ではなく、持続可能な農家にしていかないと。そう強く思うようになりました」

農家になって10数年。農業の面白さも厳しさも身をもって体験してきた。この先、現状維持でつないでいく道もある。しかし生稲氏は、あえて「攻めの農業」に打って出た。

目指すは「サラリーマンより高収入。
サラリーマンより自由」な農家

生稲氏が今、力を入れるのは事業拡大だ。自然災害リスクが高まる今、気候に左右される第一次産業だけに頼る経営は危うい。今後は畑をベースに、加工や飲食など新たな事業を展開し、経営の安定化を図ろうと考えている。海外進出にも本腰を入れるべく、2020年からは香港への出荷も開始した。仕事のやり方も変えようと、スタッフ2人を常時雇用し、現場は彼らにどんどん引き継いでいる。おかげで体力と時間の余裕が生まれ、先のことを考える時間ができた。

生稲氏手製の石窯。

生稲氏手製の石窯。畑で採れたてのリンゴや桃でピザを焼く。産直フェアに持ち込むことも。

「これまでは『僕にしかできない』と勝手に思いこんで、人に任せることができなかったんです。でも現場は僕でなくてもできるし、規模を拡大しようとすれば、自分一人では回らない。常時雇用するのはかなりのプレッシャーだけど(笑)、みんながいてくれるおかげで、できることが広がるのを今すごく感じています」

農家になってからずっと温めてきた夢も、いよいよ着手する。

「畑そのものをレストランにしたいんですよ。この畑で採れたナスやバジルやトマトをその場で料理して、この自然の中で食べてもらう。都会では絶対にできないこと、ここでしかできないことをとことん追求していきたい。できることはまだまだ、たくさんある。農業って実は、ものすごく可能性がある産業だと思います」

「くだもの楽園」の畑とゲストハウス

「くだもの楽園」の畑とゲストハウス

目標は、農家を「サラリーマンよりも高収入、サラリーマンよりも自由」な職種にすること。やり方次第で実現可能だと、生稲氏は考えている。

かつては都会っ子を気取っていたという生稲氏。気付けば「田舎で農業」にどっぷりはまっている今の自分を「結果オーライ」と笑う。

「農家が天職かどうかは分かんないですけどね。でも最近、気付いたんです。僕は学生時代、天職は探せば見つかるものだと思っていたけど、何が天職かは、死ぬまで分からないものなんだなと。自分で今やっていることが天職だと思えたら素晴らしいけれど、そうでなくても、目の前のことに楽しさを見出して、まずは一生懸命やってみる。そうすれば自ずと道は開けるんじゃないかって思います」

大変なときも、道に迷ったときも、目の前のことに一生懸命向き合っていたら今の場所にたどりついていた。大学バレー部の経験、料理人、農家としてのキャリア。その全てを総動員し、生稲氏は「ここでしか」「自分にしか」できない農業を実現すべく、今も目の前のことに一生懸命だ。

<プロフィール>
生稲洋平(いくいね・ようへい)

1979年生まれ。神奈川県出身。2001年文理学部社会学科卒。
本学卒業後、イタリア料理のシェフとして都内のレストランに勤務。2006年より山形に移住し、妻の実家の農園に就農。現在は「くだもの楽園」を経営し、果物やイタリア野菜、米、果物加工品などを生産販売するほか、「企業組合かほくイタリア野菜研究会」の副理事長を務める。