スポーツを支える人々
ネクスト・キャリア・フロンティア

Vol.1 井上純一 氏【前編】
西武ライオンズ事業部長(文理学部体育学科卒)
1992年アルベールビルオリンピック
男子スピードスケート500m銅メダリスト

卒業生
2020年07月16日

好きな言葉の“守・破・離”は大学時代に学んだ人生の教訓です

井上さん

井上さんが2013年に事業部長となってから、観客動員、ファンクラブ会員数も堅調に増加してきた

1979年から埼玉県所沢市を本拠にしてきた埼玉西武ライオンズは、以来リーグ優勝18回、日本一10回を成し遂げてきた、言わずと知れたパシフィックリーグの名門チームだ。昨年はシーズン観客動員数1,821,519人、1試合平均25,299人、公式ファンクラブ会員数も11万8004人と、いずれも球団記録を伸ばし、名実ともに、日本を代表する球団に成長してきた。右肩上がりの数字を支えるのが事業部、その事業部をまとめるのが部長の井上純一さんだ。

在学時に五輪2大会連続出場

井上さん(写真右)と3つ上の先輩・黒岩敏之さん

冬季オリンピック・アルベールビル大会で銅メダルを獲得した井上さん(写真右)と3つ上の先輩・黒岩敏之さん(銀メダル獲得)。当時の日本大学新聞より

井上さんは本学在学時(2年生)の1992年に、冬季五輪のアルベールビル大会に男子スピードスケート500m代表として出場し、初出場にして銅メダルを獲得。20歳と51日でのメダル獲得は、当時の国内最年少記録となった。

「三つ上の黒岩敏幸さん(現・本学コーチ)が2位で銀メダル。2人で表彰台に乗って、国旗が左右から掲揚されたときには、『日本ではどんな感じで観ているのかな』と思っていました。でも、そのときになって初めて、『やっぱりポールの真ん中に(国旗を)揚げたいな』と思いましたね」

アルベールビル大会の2年後、4年生になった井上さんは、リレハンメル大会にも500m、1,000mの代表として出場した。コンディションは最高の状態だったが、入賞はした(500m=6位、1,000m =8位)ものの惜しくもメダルには手が届かなかった。

「国内のオリンピック代表選考会が本大会の1週間前にようやく決まる激戦の年だったので、そこにピークを合わせてしまったのかもしれません」

当時、大学の後輩には清水宏保(のちに1998年長野大会500m金メダル)や専修大の堀井学(リレハンメル大会500m銅メダル)ら世界トップレベルのスプリンターが名を連ね、日本は「スピードスケート短距離王国」と呼ばれるほど、高水準の選手たちがしのぎを削っていた。

「でも、大学時代はインカレで負けたことがなかったので、国内で勝つ自信はありました」

井上さんは500m、1,000mの両方で代表に選ばれ、オリンピック2大会連続出場を果たした。

「八幡山の寮から2度もオリンピックに出られたことは、大学が与えてくれた環境に感謝しかないですね」

秩父からオリンピックへ

弱冠20歳と51日で銅メダルを獲得したときの新聞記事

弱冠20歳と51日で銅メダルを獲得。当時の国内最年少記録となった

中学1年生の時、サラエボオリンピック(1984年)を見て「オリンピックに出たい」とスピードスケートに魅了された井上少年は、近所にあるスケートリンクで本格的に練習を始めた。高校でもスケート部に入ったが、使っていた近所のスケートリンクが閉鎖されてしまう。すると、

「顧問の先生が、それまで乗っていたスポーツカーをワンボックスカーに買い替えてきてくれた。それからシーズン初めの11月くらいからは毎週3日は学校が終わってから先生のワンボックスでスケートリンクのある軽井沢まで2時間半かけて練習に行って、帰りはいつも夜中でした」

井上さんの「オリンピックに出たい」という想いに、顧問の先生も乗ってくれたんだという。

部員も6人だったが、それぞれから刺激を受けた。一人はスケートは速くないが、陸上の基礎トレーニングが自分より長けていたり、別の一人は「スケートは楽しい」とハードな練習も楽しんでする雰囲気を作ったり。年下の後輩は「井上先輩を越えたい」と言って刺激してくれた。

そうして練習に励んだ結果、インターハイで3位となり、本学に進学。そこからは先述の通りだ。

井上さんの競技者人生には、最初に「想い」があり、それを支えてくれる「環境」があった。「想い」が「環境」を生んだ、とも言えるかもしれない。

しかし、「想い」はしばしば、厳しい現実を前に薄れていく―。

切符を手にした「諦めない」気持ち

銅メダルを獲得したアルベールビル大会の直前、毎年年末に行われるインカレで優勝を飾った井上さんは、リレーでアンカーを務めたレース後、突然、ギックリ腰で立てなくなった。

「年末に横浜の港湾病院に緊急入院しました。コルセットを着けた時には、正直、オリンピックは『もうダメかな』と一旦、諦めました。でも2、3日すると少しずつ回復してきて、1週間で退院できました」

年が明けて10日後に迫った国内オリンピック最終選考会。何とか出場した初日の結果は芳しくなく「8位か9位」だった。2日目、もう優勝しかチャンスは無いとなった最後のレース、井上さんは、起死回生の滑りを見せて見事優勝。フランス行きの切符を手に入れた。2週間前には病院のベッドで動けず、3週間ほぼ練習ができなかったとは思えない、鮮やかな勝ちっぷりだった。

「自信は1割もなかったと思います。ただ、最後まで諦めないことだけは、決めていました」

薄れかけた「想い」は、「諦めない」ことで、実を結んだ。中学一年生で想い描いた「オリンピック出場」の夢には、「メダル」のおまけまで付いた。

2018、2019シーズンのペナントレースを連覇中のライオンズ

2018、2019シーズンのペナントレースを連覇中のライオンズ。次なる目標はもちろん日本一奪還

あれから28年。「西武ライオンズ事業部長」の肩書を持ち、名門チームを支える井上さんにとって、今も教訓としている言葉がある。

「私は『守・破・離』※という言葉が好きなんですが、これは大学時代のこうした経験に教えられたと思っています」

トップレベルのスピードスケートの世界から、野球の世界へ。教えである「守・破・離」を実践するメダリストの本領発揮は、まだまだこれからなのかもしれない。

 

※「守・破・離(しゅ・は・り) 剣道や茶道で、修業上の段階を示したもの。守は、師や流派の独自な教え、型、技を確実に身につける段階、破は、他の師や流派の教えについて考え、良いもの、望んでいる方向へと発展する段階、離は、一つの流派から離れて、独自の新しいものを確立する段階」(『日本国語大辞典』より)

 

(後編に続く)

<プロフィール>

井上純一(いのうえ・じゅんいち)

1971年(昭和46年)1226日、埼玉県秩父郡荒川生まれ。

中学1年からスピードスケートを本格的にはじめ、県立秩父農工高校3年時にインターハイ3位となり、本学文理学部体育学科に進学。在籍した4年間、国内ではインカレ4連覇を飾り、1992年冬季オリンピック・アルベールビル大会では500mで銅メダル獲得。続く、リレハンメル大会では、500mで6位、1,000m8位と2大会連続入賞を果たした。3大会連続出場となった長野大会では、代表入りも本戦出場なし。ワールドカップ通算3勝。2000年に現役を引退し、西武グループ入社。関連会社で人事部門などを経て、2013年に現職。