スポーツを支える人々
~ネクスト・キャリア・フロンティア~

Vol.3 大野 均 氏【前編】
東芝ブレイブルーパス普及担当(工学部機械工学科卒)

卒業生
2020年08月28日

「灰になってもまだ燃える」まで走り続けた足跡と、これからのこと

「品位」「情熱」「結束」「規律」「尊重」。
ラグビーの統括団体・ワールドラグビーが定める競技規則の前段に、「ラグビー憲章」というラグビーの基本原則となる五つの価値が明記されている。

このたび42歳で引退することになった日本代表歴代最多の98キャップ(国際試合出場数)、W杯に3度の出場した大野均さん。グラウンド内外で、その一挙手一投足はどれをとってもラグビーが大事にする価値にあてはまる。

「品位」:礼儀正しさ
「情熱」:ピッチ上でのタフな動き
「結束」「規律」:自分の痛みより仲間を優先するプレー
「尊重」:周りへの気遣い

「大野均」と書いて「ラグビー」。そんなルビを敬意を表して振ってみたい。

本来であれば感謝のフラッシュライトに照らされるはずだった引退会見は、オンラインで行われた。

16年前の入社三年目、アメフト映画の予告編で見た台詞から信条の言葉に決めた「灰になってもまだ燃える」。言葉通りに走り続けたこれまでの足跡と、これからのキャリアについて聞いた。

ふるさと・福島の自然で培われた頑丈さ。

1978年5月6日、4人姉弟の3番目として誕生した大野さん。福島県郡山市で農業と酪農を営む両親のもとで育った。「小さい頃から農作業の手伝い、実家で作ったお米を食べ、育てた牛乳をよく飲んで」自然を食べて育った。

「現役19年で手術、メスを入れるケガは一度もありません」

その源は福島の恵みと「東北の人の我慢強さです」と即答する。

目に浮かぶのは、朝早くから夕方までずっと農作業や牛の世話していた両親の背中。「特別何かを言われたわけではないですが、背中を見て育ちました」。

必然的に、引退の報告を一番先に伝えたのは、一番影響を受けた人に挙げた、ご両親だった。

ラグビーではなく野球少年

大野さんが小学校に上がると、地元にスポーツ少年団ができ、父親も野球をやっていたことから野球を始める。中学時代は野球部の朝練前に母に勧められた新聞配達をこなし、多忙な生活を送る。「いま考えれば、新聞配達、部活の朝練、授業、部活とよくやったと思います(笑)」

野球に明け暮れながらも「もともと機械を触るのが好きで、普通科と違い実習があった方が楽しい」という理由で、県立清陵情報高校工業科電子機械科に入学。高校3年間、野球部で白球を追いながら、電子機械科ではトップの成績だったこともあり、日大工学部へ推薦の道が開けた。

まさか、が現実に

ここで運命が大きく動き出す。

日大工学部機械工学科に入学。大学でも野球を続けようと歩いていたところ、屈強なラグビー部の先輩に両脇を抱えられる。そのまま部室に連れられていき、名前と連絡先を書くことになる。その後の熱心な勧誘に惹かれ、ラグビー部の練習を見に行くことにした。

そこで初めて触れた楕円球。

「高校3年時に高校ラグビー福島県大会の決勝、花園の決勝を見て、同年代の選手がコンタクトスポーツで熱戦を繰り広げているのはカッコイイと思っていました。まさか自分がやるとは思いもしませんでしたが」

そのまさかが現実となり、コンタクトスポーツの楽しさに惹かれ入部を決めた。

工学部のラグビー部は4年生が抜けると試合に必要な15人が揃わなくなる。

「新入部員獲得が死活問題でした」

ラグビー部の顧問が体育の教員の方だったこともあり、ラグビー経験者がリストアップされ、先輩からの指令で「半ば強引にでも連れてこい」と、自身が先輩に両脇をかかえられたあの日のように、仲間を集めた。

こうして大野さんのラグビー人生の幕が、ふるさと福島の地で開けることになった。

その時は後に、桜のジャージーと呼ばれるラグビー日本代表として戦うとは知らずに。

<プロフィール>
大野均(おおの・ひとし)

1978年(昭和53年)5月6日、福島県郡山市生まれ。清陵情報高校時代は野球部。
日大工学部進学後にラグビーを始める。トライアウトで認められ2001年に東芝ブレイブルーパス入り。
07年フランス大会、11年ニュージーランド大会、15年イングランド大会と3度のW杯に出場を果たした。代表キャップ98は歴代1位。192㎝、105㎏、ポジションはロック。
現在は東芝ブレイブルーパス普及担当。