スポーツを支える人々
~ネクスト・キャリア・フロンティア~

Vol.4 折茂 武彦 氏【前編】
株式会社レバンガ北海道 代表取締役社長(経済学部経済学科卒)

卒業生
2020年09月11日

「考え、工夫し、実行する」ことを日大で学んだからこそ、49歳までプレーできたのです

2016年に開幕した男子プロバスケットボールリーグB.LEAGUE(以下、Bリーグ)。音響や演出など各クラブがエンターテインメント性を高める工夫を凝らし、新たなプロスポーツとしての地位を確立している。Bリーグ1部、B1の激戦区と呼ばれる東地区で戦うレバンガ北海道で代表を務める折茂武彦さんは本学OB。バスケットボール界のレジェンドとして49歳まで現役生活を続け、今年からクラブ経営に専念している。北海道の地でバスケットボール人気を根付かせ、熱を日本中へ拡大させたい。その夢を追い求め、毎日を駆け抜けている。

日大進学の理由は “日本一になりたい”

折茂 武彦 氏 (経済学部経済学科卒)

リモートでの取材に笑顔で対応してくれた折茂さん。バスケットボール界のレジェンドは「周りに助けられてここまできました」と控えめに語った。

埼玉県出身。バスケットボールは中学校から始めた。埼玉栄高校ではインターハイでベスト8へ進出。1989年、強い意志を持って八幡山の桜の門をくぐった。

「高校時代、県内では勝てましたが、全国的にはそこまで強豪ではありませんでした。もっと強いチームで自分を試してみたい。そして日本一になりたい。それが日大を選んだ理由です」

当時、日大バスケットボール部はインカレ優勝回数がトップ。日本中の高校からトップ選手が集う、紛うことなき強豪であり名門である。それだけにレギュラー争いもし烈を極めた。

折茂さんは高校時代、ビッグマンと呼ばれる主にゴール下でプレーする、身長の高い選手が務めるポジションだった。しかし同学年に同ポジションで全国優勝を果たした高校から入学した選手がいた。試合に出るため、折茂さんは違うポジションに移る決断をする。

「そこで最初の壁にぶち当たりました。これまでとはまったく動きの異なるポジションでプレーしないといけなくなったのです。しかしそこでも部内の競争に勝ち残らないと試合に出られない。練習でいかに自分の能力を高めて、他と差をつけていくか。アプローチの仕方をいろいろと試しました。バスケットボールについて真剣に考えるようになったのはこの時からです」

日大で学んだのは考え、工夫し、実行に移すこと。その後の現役生活もこの三つを繰り返してきた。だからこそ卒業後27年間、49歳までプレーができたと折茂さんは振り返る。

周囲の協力があるから 自分が生きる

主将としてチームを牽引した4年目、悲願のインカレ優勝時の新聞記事

主将としてチームを牽引した4年目で悲願のインカレ優勝。決勝戦ではチーム最多の20得点を記録し、MVPにも輝いた。当時の日本大学新聞より

もう一つ学んだことがあった。それは人のつながりの大切さ。折茂さんの入学と同じタイミングで監督に就任したのが故川島淳一前監督。川島氏はポジションを変えたばかりの折茂さんを1年生からベンチに入れて起用した。その事実は折茂さんにとって大きかった。

「自分が試合に出れば、ひとり出られない選手がいます。私は1年生でしたから、普通であれば先輩が選ばれたでしょう。しかし先輩たちは自分を応援してサポートしてくれました。感謝しかなかったですね。そして川島監督が未熟な私を期待を込めて試合で使ってくれたからこそ、今の自分がある。まさに恩師と言える存在です」

人のつながりは学内だけに留まらなかった。他大学にも心から認められるライバルが生まれ、彼らに負けたくないという思いから、より高いレベルを目指すようになった。4年時にはインカレでの優勝も果たした。折茂さんの周りには最高の仲間がいた。

学生時代に切磋琢磨した選手は盟友となり、のちに共に日本のバスケットボール界を牽引した。そしてクラブ経営を行っている今、学生時代の縁でスポンサーになってくれた企業もある。周囲の協力があるから、自分が生きる。折茂さんは現在に至るまで、この思いを持ちつづけている。

北海道に渡って知ったプロ選手のあり方

1992年度の体育部門、総長賞も受賞時の新聞記事

1992年度の体育部門、総長賞も受賞。この時から将来の現役引退後にバスケットボールの仕事を続けていく意思を持っていた。

卒業後はトヨタ自動車に進んだ。当時は決して強豪とは言えないチームだったが、「日本代表を目指したい。そのためには試合に出られるチームを」との思いで入社を決意。2年目からは契約社員としてバスケットボールだけに専念できる立場になった。日本代表にも選出され、中心選手としても活躍。所属チームでも9年目には当時の実業団リーグであるスーパーリーグで優勝も果たした。しかし折茂さんの心にはひっかかるものがあった。

「自分はバスケットボールが仕事でしたがプロ選手ではない。その違和感がずっとありました。そんな折、2007年から北海道に新しくプロチームができるという話があったのです。すでに30歳を過ぎていましたし、トヨタでも優勝を果たしました。プロという新しい目標設定をしてもいいだろうと考えたのです」

2007年、設立されたばかりのレラカムイ北海道への移籍を決める。

実業団チームからプロチームへ。社員からプロ選手へ。しかしプロになったことで逆にバスケットボール以外の仕事が増えた。観客を増やすために街に出て告知のビラも配った。会社員時代には行ったことのない社会貢献活動も参加した。戸惑いを感じながらもすべてをひとつずつこなし、迎えた最初のシーズンの開幕戦。そこには驚きの光景があった

「ファイナルでもない通常のレギュラー開催の試合で満員のお客さんが集まったのです。そんな経験はしたことがありません。そして“ホーム”というものを強く意識しました。自分たちは地域に密着するプロである。応援してくれる人のため、夢を持つ子どものためにプレーをする。これがプロなんだ。そう感じた瞬間でした」

応援してくれる人に感動していただき、笑顔になってもらいたい。それは今も仕事をしていくうえでの理念となっている。北海道に来て自分は変わった。折茂さんはそう繰り返す。

(後編に続く)

<プロフィール>
折茂武彦(おりも・たけひこ)

1970年(昭和45年)5月14日、埼玉県出身。
中学校でバスケットボールを始め、埼玉栄高校に進学。日本大学経済学部経済学科に進み、4年時には全日本大学バスケットボール選手権(通称インターカレッジ、インカレ)で優勝を果たす。
卒業後の1993年、トヨタ自動車に入社。同年日本代表入りを果たし、広島アジア大会や1998年世界選手権など、国際大会を数多く経験した。
2007年にレラカムイ北海道へ移籍、2011年にレバンガ北海道を創設し、選手兼代表を昨年まで務めた。2020年の引退後も代表取締役社長としてクラブを経営しながら「Bリーグナビゲーター」も務めている。