我、プロとして

Vol.5 佐藤公一郎 氏【前編】
美濃焼職人(伝統工芸士)(1977年文理学部史学科卒)

卒業生
2020年12月17日

志野焼っていうのは、日本の焼き物の歴史の上でも、特別な焼き物なんです

いつの世も芸術が開花するには、タニマチの存在は欠かせない。「美濃焼」は、かつての美濃の国、今の岐阜県の南部にあたる、土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市にまたがる地域で作られる陶磁器の総称で、元々、平安時代から陶器の里として知られていた。そこで贔屓したのが、あの織田信長、そして、豊臣秀吉だった。1576年、稲葉山城の戦いで美濃国平定を進めた信長は、自らが愛した茶の抹茶茶碗のために陶工たちを保護して作らせた。その遺志を秀吉が継ぎ、二人の天才武将に守られた匠たちは、数々の名器を世に出し続け、岐阜県はいつしか全国でも有数の産地となった。佐藤公一郎さんは、そんな匠の継承者のお一人だ。

可児市を代表する「志野焼」

愛知県犬山市と岐阜県可児市を繋ぐ、名鉄広見線「明智」駅から歩いてすぐのところに、今回、紹介する美濃焼職人・佐藤公一郎さんの営む「佐藤陶藝」はある。

少し北には、可児川、さらに1kmも上れば木曽川が流れる、風光明媚なこの土地で、父と伯父の代から陶芸家として窯を興し、ろくろを回してきた。

佐藤家のものづくりの血は、父の兄弟たちからあったそうだ。

「父は5人兄妹の末っ子で、一つ上の4番目の兄と美濃焼を始めたんですが、きっかけはその上の3番目の兄が陶芸の専科があった高校に入って勉強を始めて、その影響を受けて、下の弟だった伯父と父も同じ学校に入った。その後、戦争があったんですが、終わって戻ってきてから二人で始めたんです」

当初は、国内向けではなく、輸出用の磁器を作っていたが、昭和42年に志野焼に方向転換した。読みが当たったのか、ちょうどその頃、国内で志野焼の大ブームが到来。家業は軌道に乗った。

「志野焼っていうのは、日本の焼き物の歴史の上でも、特別な焼き物なんです」

佐藤公一郎作「梅花皮 白志野 しのぎ 深小皿」

佐藤公一郎作「梅花皮 白志野 しのぎ 深小皿」

焼かれ始めたのは戦国時代末期、桃山時代と言われる志野焼は、それまでの焼き物とは明らかに違う特徴が二つあった。

一つは、日本で焼かれた最初の“白い”焼き物であったこと。それまでは、世界中を探しても中国で作られた磁器にしか、白い焼き物はなかった。

もう一つは、筆を使って柄が描かれた最初の焼き物であったこと。今では当たり前のように器には絵が描かれているが、それまでは粘土に直接ひっかいて模様を入れる柄の入れ方だった。

当時から画期的だった“白い美濃焼”は、昭和の世でももてはやされた。

「志野茶碗 銘卯花墻」(三井記念美術館公式HPより)

「志野茶碗 銘卯花墻」(三井記念美術館公式HPより)

のちに国宝となった『志野茶碗 銘卯花墻』も、この可児市の山の中で焼かれている。

ちなみに、日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、本阿弥光悦の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみだ。

陶磁器国内生産量の約半分は「美濃焼」

平安以前から室町、安土桃山時代に隆盛を極め、日本の歴史上、長く息づいてきた「美濃焼」は、現世に至っては、陶磁器国内生産量の約半分を占めるまでに成長した。

「順番で言うと、黄色い黄瀬戸と瀬戸黒っていう黒い器もあるんですが、いずれも志野が焼かれる直前に焼かれています。そして志野焼、ちょっと間を置いて関ケ原の戦い(1600年)の後に織部焼。それぞれの焼き物の違いは、釉薬(ゆうやく/素焼の陶磁器の表面に光沢を出し、液体のしみ込むのを防ぐのに用いるガラス質の粉末のこと)の調合。黄瀬戸と織部は木を燃やした灰を使っていて、志野には白い長石(ちょうせき)という岩石が入っています」

佐藤さんの“こだわり”が行き届いた工房の中でのインタビューの一枚

佐藤さんの“こだわり”が行き届いた工房の中でのインタビューの一枚

今も昔も、使っている原材料は変わらないが、配合や比率、焼き方で、色味は、一つとして同じものはできない。

それが、焼き物の奥の深さだ。

そして、「美濃焼」の奥深さは、「九谷焼」(石川県南部で焼かれた色絵磁器)や「有田焼」(佐賀県有田町で焼かれた白磁彩色磁器)とは異なり、同じ地域でも多様な焼き方が存在することだ。

その焼き方は、「美濃桃山陶の聖地」という可児市のホームページに簡潔に書かれている。

・「黄瀬戸」は、色の地に花文様などを刻み、緑や茶(鉄釉)をアクセントのようにつけた上品な焼き物。

・「瀬戸黒」は漆黒の茶碗を主とする。この真っ黒な色は、窯から取り出して急冷することで生み出された。

・「志野」は、真っ白な肌(長石釉)に鉄絵具で下絵を描いたもの。日本のやきもので絹のような白い釉薬をかけたのは、「志野」が初めて。これに筆によって自由に下絵を描いた。

・「織部」は、新たに緑色などを加えた焼き物。「黄瀬戸」以来のすべての色彩を総合し、京の都で流行る文様をも巧みに取り入れた。

可児市を代表する「志野焼」

「こうした専門用語しかない焼き物の世界を、どう分かるように伝えるか、よく考えますね」

佐藤さんは、美濃焼職人の中でも、選ばれし「伝統工芸士」としての役割も担う。

25年ほど前から始めた地元の小学校4年生を対象とした、伝統工芸の体験学習を、今年も7校で行った。社会科の副読本でも佐藤さんの職場が紹介されている。

「だいたい3時限を使って、焼き物づくりの工程と実演をみせます。土練りとろくろを回して形をつくるところなんかをね。あとは、歴史。やっぱり国宝を焼いた土地柄、歴史的にも日本の焼き物の中でも重要な土地ですんで」

接する子供たちの中には、才能のある子供もいるという。

「100人いたら1、2人はいるかな。本当に『何で初めてなのにこんなに上手にできるのか?』っていう子がいる」

きっとその子も「伝統工芸士」に褒められたら嬉しかろう。

「でも、僕はあまり大げさに褒めたりはしません。そういう子に限って他に行ってしまうものです(笑)。才能がなくても、努力して上達できるのが焼き物なんです」

好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。

出張授業が終わると、佐藤さんは、先生に必ず言うことがある。

「『作った器は割らなきゃ千年でも残るよ』って子供たちに言って下さい、ってね」

教えた子供たちの数は、四半世紀で、千の桁を超えて万になる。

「今年も『まだ使ってます』っていう子がいました。もう立派な大人でしたが(笑)」

平安時代以前の1200年以上も前から根付いた、この地の焼き物文化は、今もこうして佐藤さんのような匠たちの手によって、継承されている。

<プロフィール>
佐藤公一郎(さとう・こういちろう)

1955年3月24日、岐阜県可児市生まれ。1977年文理学部史学科卒。
本学卒業後、現セラミックス研究所で研修生として2年間基礎を学び、家業である「佐藤陶藝」手伝い始める。美濃焼の中でも、志野焼、黄瀬戸を主に創作。
1990年代中盤からは、求められて地元小学校にて美濃焼の文化・創作の講演活動を続け、2005年には「美濃焼伝統工芸士」として経済産業大臣認定を受けた。
毎年、東京・青山にて個展も開催。大好きな鮎の友釣りは生活の一部。