Vol.14 岩崎伸道 氏【前編】
株式会社レイクヴィラファーム 代表取締役
(1971年経済学部産業経営学科卒)
“蝦夷富士“と呼ばれ親しまれる羊蹄山を背にレイクヴィラファーム代表・岩崎伸道氏
日本競馬史で指折り名馬「メジロ」の冠を輩出した北海道・洞爺湖町にある「メジロ牧場」。しかし、成績不振などを理由に2011年5月に閉鎖となった。
史上初の牝馬三冠馬・メジロラモーヌ、そして記録よりも記憶の残り、1991年の宝塚記念を制したメジロライアン。そのファンを魅了したメジロの意志を継ぎ、「レイクヴィラファーム」として再出発したのが岩崎伸道氏だ。
新たな形でターフに帰ってきたメジロ、もといレイクヴィラファームの10年とこれからを追う。
2011年4月27日、競馬界を震撼させたニュースが駆け巡った。
「メジロ」の名で数々のレースを制したメジロ牧場の閉鎖が発表。同年5月20日に閉鎖。
閉鎖の背景には、メジロ牧場を興した北野豊吉氏(1984年没)の妻・ミヤさん(2004年没)が、当時専務だった岩崎氏に「アナタの仕事」と託した思いがあった。
「牧場は倒産する前に、誰にも負担をかけずに閉鎖できるときに閉鎖しなさい」
当時のメジロ牧場は、オーナーブリーダーと呼ばれる自家生産馬を競走馬に育て、獲得賞金で経営を回していた。
「逆算すると、内部留保・貯金が3億を切ったらイエローゾーン(黄色信号)、2億円を切ったらレッドゾーン(赤信号)と自分で決めていました」
そのイエローゾーンに入ったタイミングで東日本大震災があり、競馬が2、3週間中止になった。
賞金で運営しているオーナーブリーダーには痛手となり、閉鎖を決意した。
閉鎖を決め牧場を整理していた5月のこと。
牧場を閉めることの報告と、所有している馬を買ってくれないかの相談に、ノーザンファーム(競走馬の生産・育成・調教を行う国内トップの総合牧場)の吉田勝己社長のもとを訪れた。
吉田社長とは高校からの知り合い。日大櫻丘高で馬術に出会った岩崎氏、同学年で慶応高校馬術部だったのが吉田社長。互いに大学まで競技を続けた二人は旧知の友だった。
「なんで閉めるんだ」
吉田社長の言葉が返ってきたが、岩崎氏の理由を聞くと「分かった、出来るだけのことはする。一晩考えさせてくれ」と言った。
翌日、吉田社長からの返事は意外なものだった。
「岩崎、助けてやるから自分で牧場やりなよ。あれだけの基盤があるならもったいない」
吉田社長の後押しに、それも一つの方法だなと思った岩崎氏。
息子の岩崎義久氏にも相談すると「そういう話があるならやりましょう」とさらに背中を押された。
そして吉田社長の援助のもと牧場を買い、2011年5月20日にメジロ牧場からレイクヴィラファームに全ての名義変更を1日で済ませた。
「調教師さんは、関東も関西も預託料請求が20日締め。日割り計算が大変だから書類も土地も全て20日に変更した」
こうして2011年5月21日、レイクヴィラファームとして新たな一歩を踏み出した。ミヤさんが思いを託したように、誰にも迷惑を掛けないようにした気遣いはメジロ牧場で培った。
レイクヴィラファームと名付けたのは吉田社長。
「洞爺湖が近い、レイク。レイクヴィラがいいよ。それでいこう」と言うと、周りの反応もよく、すぐに決まった。
数々の優勝レイやトロフィーが飾られている
レイクヴィラファームとして一歩を踏み出した岩崎氏。
これまでのオーナーブリーダーから「競りで生産馬を売る」マーケットブリーダーへと舵を切った。
マーケットブリーダーとは自家で生産した馬を馬齢2歳になるまでに競りで売ることで経営を回す形態のことだ。
別に、庭先(取引)と呼ばれ、生産馬を繋がりのある調教師や馬主と競り以外で取引する方法もある。
しかし、もともとオーナーブリーダーだったレイクヴィラファームはそういったしがらみがなく、純粋に競りだけで生産馬を送り出す。
「そろそろ丸10年、赤字は一度もありません」
メジロ牧場時代から北海道に渡り半世紀。
先代から馬の育成だけではなく、経理もこなしていた岩崎氏は、経営でも勝ちを続けている。
牧場の青草を食べる親子馬。主食はアメリカから輸入した牧草を与える
東京生まれ東京育ちの岩崎氏。馬との出会いは高校時代にさかのぼる。
高校の受験を控え、日大櫻丘高を訪れた際に馬場を見つけた。
もともと動物が好きだったこともあり、櫻丘高の馬術部に入ることに憧れた。
そして見事、櫻丘高に進むと馬術部へ入部したが、あったはずの馬場がグラウンドに変わっていた。
ちょうど入学時に馬場は、現在本学馬術部のある小田急線・六会日大前駅へ移転していた。
平日は週2日、参宮橋にあった東京乗馬クラブ、土日は六会で馬に乗る生活を3年間送った。
時を同じくして本学馬術部に後藤監督が就任。「おっかない監督だと思った」
「大学に来るんだろ」と声を掛けられ「はい、お世話になります」と二つ返事。
自身も他の選択肢は考えておらず、大学でも競技を続けた。
馬術部で過ごした日々を「いい仲間と馬術を続けられたのは、ともに目的をもってやる。それが楽しかった」と振り返る。いまでも大学の垣根を超えて付き合いがある同期という財産を得た4年間だった。
後藤監督の指導は、社会人になってから響いたものが多かった
岩崎氏がメジロ牧場へ初めて行くきっかけになったのが当時の本学馬術部・後藤博志監督だった。メジロ牧場のオーナーの次男・北野雄二氏(立教大学馬術部)と同級生だった後藤監督。その繋がりで、メジロ牧場から引退した競走馬の寄贈を受けていた。
その内、現在の洞爺の牧場をつくるにあたり人手が必要で、アルバイトの打ち合わせに行くように後藤監督に言われ、そこで初めてメジロ牧場に行った。
そして、夏休みになると馬術部員が牧草の整理や馬の世話を交代で行き、交流が始まった。
「北海道って良いな。一生過ごせたらいいな」と思うようになった。
「自分が今日、牧場で馬に携われて、牧場を継ぐことができたのは監督のおかげです」
きっかけをつくってくれた後藤監督に対しての感謝は厚い。
とても厳しかった後藤監督。人前でも怒られたが、絶対に暴力は認めなかったという。
「話して分からない奴が殴ってわかるか」
社会人としての生き方を教わった。
後編では北海道の地へ移ってから、そこでの思いを伺う。
<プロフィール>
岩崎伸道(いわさき・のぶみち)
1948年11月4日、東京都生まれの72歳。経済学部産業経営学科卒。
日大櫻丘高で馬術競技に出会い、大学でも競技を続ける。東京で就職したが、1年で北海道に渡りメジロ牧場で働く。
現在は85haの敷地を有するレイクヴィラファームを経営し、生産馬がレースに出る週末は競馬場で馬主さんと声援を送る。