Vol.20 板坂直樹 氏【後編】
株式会社CAVIC 代表取締役社長(1990年文理学部卒)
大学時代を東京で過ごした板坂氏は、社会人生活のスタートを大阪で切り11年を過ごし、33歳で香川に戻る。香川に戻ってから20年余り、思い出の詰まった学び舎を廃校のままにせず活用したことは、周囲に感謝されるという。知っている先輩、同級生はもちろん。その親世代や知らない人からも「あなた板坂さんでしょう。学校を買って桜並木守ってくれてありがとう」とよく声を掛けられる。「離れているときほど、地元を想う」周囲の声にさらに応えるべく、地元で雇用を創り、昼食は周辺のお弁当屋を利用するなど、出来るだけ引田の町に還元している。大阪での修行、そして地元に戻り社長になるまでを聞いた。
父・信定さんが興した大協建工株式会社。小さい頃から漠然と「社長」への憧れがあったという。
いずれは父の跡を継ぐと、大学4年生となって建築業界の就職試験を受けて、大阪の同業者で1部上場の大建工業株式会社に入社した。
大学を出たばかりの若者が職人さんを使うようになる。年上に指示をするため、当然摩擦が多かった。大手ゼネコンの下請けとして、“番頭”と呼ばれる管理者の役割を11年間、勉強して修行を積んだ。
そんな中、3年目に結婚。しかし、まったく貯金がない。
夏に結婚したものの、冬場になるとコタツもストーブもなかった。一緒に働いていた職人さんにそうぼやくと、お金を出し合いストーブやコタツを買ってくれた。
「本当によく職人さんに育ててもらった。人付き合い、人間関係、コミュニケーションが得意な方だったのがよかった」
人付き合いが上手くなったのは、水泳と寮生活のおかげかもしれない。
水泳は個人競技とはいえ、スイミングクラブは学校外でのコミュニケーションの場。大学では寮生活で、絶えず誰かがいる。鍛えられ必然的に人付き合いがうまくなった。
「親も商売を始めた人ですから、人と人の関係を大切にするし、大事。ここさえしっかり確立できていれば、少々のミスは人間関係でカバーできる」
水泳同様、真っ直ぐ愚直に向き合った先に築けたものが、板坂氏を成していた。
普段は来客を上座に案内するが、この日はかつて校長の座った上座でインタビューに答えた
周囲の勧めもあり、大阪で11年を過ごし地元に帰ったのが33歳。
“番頭”としての自信はついた。
ある程度できると思っていたが、しかし、会社の経営、社長の仕事は全然違った。
3年間は営業本部長として父の跡を継ぐための勉強をした。
いつの間にか父がお客さんやメーカーさんに「そろそろ社長代わるから」と言っているのに気が付いた。
「え、俺代わるの」
周りからも「代わるんだってな」と声を掛けられるようになった。まだ先のこと、と思っていただけに驚いた。
父からは直接的な話は一切なく、36歳で社長就任を迎えることになる。
笑顔と人を惹きつける話のテンポが魅力の板坂氏
強いて言えば、就任の2カ月ほど前、代替わりのパーティーをするからと段取りの話が出た。嫌だった。
父は、高松で600人を招待した盛大な社長就任パーティーをした。
「あれがなければ、ハガキを送り、各所に訪問して挨拶。ものすごい時間、費用がかかる。それが一回で済んだ。すごく理にかなっていた」
実際にパーティーで喋る番になると、緊張で頭が真っ白になった。
「各地からお集まりいただき、今日はここがさながら首都のようです」
用意してした3行ほどの言葉は覚えていたが、600人を見回すと言葉が頭から飛んだ。
なんとか言葉を繋げないと、と思うと、常に口にしている言葉しか出てこなくなった。
結果、それが大成功だった。
人は宝だ。
「じんざい」とはいろんな意味がある
「人災、人罪」は組織に災いを
「人在」はただ存在しているだけ
「人財」は宝
「親父から引き継いだ今いるスタッフを磨き倒して宝石にします。その作業を私はこれからやっていきます。宝にしてみせます、人を磨いてみせます。ここでお約束しましょう」
参加者の胸に新社長の言葉が響いた。
「日大生の最もいいところは行動すること。失敗しても行動する。しぶとさが日大生の最も得意なところだと思います」
経済用語でスクラップ アンド ビルド、という言葉があるが、一方でしぶとく続けることも大事と板坂氏は言う。
「いまだに全社員に言い続けています。夢を持て。夢を実現させるには『力』が必要」
その「力」には二つある。
まずは「夢現力」。夢を現実にする力。
次に「試行力」。行動する、トライする。
思うだけではダメで、頭でっかちにリスクばかり考えては何も起きない。
行動してみることが肝要だと説く。
かつて立たされた母校の廊下でブランドロゴと板坂氏
インタビューを通して、今の学生に言いたいことが挙がった。
「若いうちはナンボでも修正きくから、やりたいことやれ、夢を持てと言いたい。子どもの頃の夢はみんな絶対にあるから、無理矢理にでも紐づけていい、そうすれば人生に満足できる」
大協建工株式会社の高松支店にコックになりたかった職人さんがいた。
その職人さんは、夢と全然違うことをしていると板坂氏に言った。
そこで板坂氏が伝えた。
「モノをつくるという意味では一緒。何かをつくって買っていただいて満足してもらう、モノを作るとはそういうことではないか」
強引にでも結び付け、叶えるために頑張る。
だから、夢を持った後、目的をビジョン化して行動する。行動するのが最も得意なのが日大生のいいところ。
だから「夢現力」と「試行力」が重要と熱がこもった。
「失敗しても失敗しても失敗しても、しぶとく、最後に成功すれば失敗ではない」
板坂氏に座右の絵がある。
「洞窟と頼朝」という日本画家の前田青邨氏(1885〜1977)の作品だ。
若い頃、戦に負け続けた源頼朝が、家臣含め7人となって洞窟に逃げ込んだという物語を絵にしている。
窮地にありながらも決して諦めていない、源頼朝の眼光に感銘を受けた。
たった7人になった時期もありながら、のちに征夷大将軍、つまり日本のトップになった。
しぶとくはとても大事。諦めることは簡単だけど、続けること、成功するまでやり続けるのは最も難しいかもわからない。
「私も失敗している、失敗もちゃんとある」
最後は柔らかい笑顔で、学生に伝えたい言葉を締めくくった。
キャビアづくりで人と関わることが増えた板坂氏。
「キャビアは人を集める魔力がある」
以前は魅力と言っていたが、魅力では収まらない力を感じ、魔力という言葉を使うようになった。
廃校の再利用にスポットライトが当たるが、板坂氏の人柄、経験が織りなす懐の深さが随所に表れていた。
キャビア営業用の冊子。説明に1時間をかけて熱を込める
戯曲でも悲劇でも喜劇でもない、現実でしぶとく成功へ向け「夢現力」と「試行力」を実行し続けた板坂氏の結晶が、「瀬戸内キャビア」に込められている。
日本一の環境を求めて本学水泳部の門をたたいたように、キャビア発祥のヨーロッパ、世界を相手に挑み、羽ばたく「瀬戸内キャビア」から目が離せない。
<プロフィール>
板坂直樹(いたさか・なおき)
1968年生。香川県引田町(現:東かがわ市)生まれ。1990年文理学部卒。
本学卒業後、大阪の大建工業株式会社で管理者=番頭の仕事を学び、36歳で父が興した内装業の大協建工株式会社の代表取締役社長に就任。2012年から廃校になった母校・引田中学校の再利用としてチョウザメの養殖を始め、キャビアづくりを手掛ける。
「瀬戸内キャビア」の商品はフランスのレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ」のテノワール賞を受賞。銀座にキャビア・バー「17℃(ディセットゥ・ドゥグレ)」を構える。
座右の絵は「洞窟と頼朝」(作・前田青邨)。