妻の分まで頑張ろうと思ったことが、 頂点に立つための転機になった

フェンシング 山田優選手(2017年文理学部体育学科卒)

卒業生
2021年10月28日

東京オリンピック・フェンシングの男子エペ団体で、日本チームは初の金メダルを獲得した。全試合に出場し、決勝でも3戦全勝でチームをけん引したのが山田優選手だ。個人戦では日本選手で唯一ベスト8に進んでいる(6位入賞)。大会が終わって1カ月後、山田選手は初めて世界ランキング1位に輝いた。文理学部キャンパスへ報告に訪れた山田選手に、世界の頂点に立って感じたことや、学生時代や東京オリンピックに至るまでの道のりについて聞いた。

「金メダル」を取って分かった、
まだ先にある「金メダル」

──オリンピックが終わって1カ月、改めて金メダルという結果を振り返っていかがですか?

「まさか1回目のオリンピックで金メダルを取れるなんて思ってもいなかったので、驚きが一番ですね。うれしさを通り越して驚きでした。僕はこれまで他人が取ったオリンピックのメダルを触らせてもらったことがなかったんです。初めて触るのは自分のメダルがいいと思っていたからです。けれども初めて金メダルを手にした時、物理的な重さはあるのですが、自分がイメージしていた重みとちょっと違っていました。そしてそれは金メダルに対する自分の熱量や思い入れ、そのための準備が足りなかった、つまり自分の未熟さの表れなのかなと思ったんです。そう考えると、まだまだ上を目指せるなと前向きな意味で捉えることができました。今回個人戦でメダルを取れなかったので、次は個人戦で取って、団体戦でもしっかり取る。今回がたまたまだったと言われないように、しっかり準備してメダルを取ることでその重みは増すのかなと思っています」

結果よりも、自分がやりきれるかどうか。自己鍛錬の日々は続くと話す山田選手

結果よりも、自分がやりきれるかどうか。自己鍛錬の日々は続く

──大会前から金メダルを目標にしていたのですか?

「目標、というより、自分の中でノルマとして設定していました。団体戦に関しては正直メダルを取れる自信があったので、それが最低ラインで、一番上は決めていませんでした。金メダルしか絶対ダメ、金メダルを取るんだというよりも、自分が楽しんで満足のいくプレーができたらそれでいいと思っていました。銀メダルでも悔いが残ったら次に生きないと思うんです。銅メダルでもいいから、自分がやりきった、楽しかったと思えるような結果で終わりたいなと」

──メダルを取ることができて最初に連絡したのはどなたですか?

「メダルを取った瞬間、いろんな人に連絡したかったのですが、会場に(フェンシング協会の)会長さんたちもいましたし、みんなでワーって盛り上がって、そのままセレモニーに行ってその後はメディア対応で、携帯電話に触る時間もなかったんです。そんな中で、やっと電話を手に取った時点でずっと着信音が鳴っていました。だから誰と一番先に会話したか、報告したかは正直覚えてないです。落ち着いてふっとわれに返ったのは夜中の2時半ぐらいでした。たぶん、妻に最初に連絡して、今の職場の自衛隊に誘ってくれた元監督の方に連絡したと思います」

少しでも積み上げて、いつでも逆転できるための準備をした

──団体戦で一番苦しかったのはフランスとの準々決勝(45-44で勝利)でしょうか?

「準々決勝は、どちらかというと危なかったなという感じです。最近フランスとの対戦ではずっと日本が勝っていたので。第1試合目で僕が絶対勝てると思った試合を落として、流れが悪くなり、その差をなかなか詰められなかった。でも加納(虹輝)君が最後にしっかり逆転勝ちしてくれました。その分次の韓国戦では自分の持ち味を生かせてスタートでだいぶ点差を広げられたので(45-38で勝利)、これが団体戦なんだと実感しました」

文理学部の教授会を訪れて報告。花束を受け取る山田選手

文理学部の教授会を訪れて報告。花束を受け取る

──では一番苦しかったのはどの試合ですか。

「1回戦のアメリカ戦です(45-39で勝利)。アメリカにとってはランキング的に見ても日本含めどの国も格上だったので、チャレンジャー精神でぶつかって行けというような戦いをしてきました。スタートでいきなり一気に8点差まで開いてしまったので、正直もう勝てないと思いました。振り返ってみれば、あそこで逆転して勢いをつけることができたからこそ、優勝できたと思います」

──フェンシングの場合は団体戦といっても3人の相手と1対1の試合の積み重ねです。それぞれの役割の違いはあるのでしょうか。

「ありますね。今回僕は徹底して点差を離されすぎないように、少しでも積み上げて、いつでも逆転して流れを作れるような準備を全試合やっていました。フェンシング関係者の方からは、『すごくいい仕事をしたね』と褒められるのですが、メディアでは、流れを作ってくれた見延(和靖)先輩や逆転した加納君がどうしても注目されます。『逆転のための準備をしたのは僕です!』って本当は言いたいですけれど(笑)」

──重要なポジションを任されていたということですよね。

「決勝戦の第1試合は世界ランキング当時2位の(セルゲイ)ビダ選手と当たって、たぶん負けて帰ってくると思われていました。あそこで5点乗せてリードしたから勢いづいたと思います。フェンシングの団体戦として考えると、かなり重要なところを任されたという思いが、自分の中でありますね」

人の3倍緊張する自分を研究し、プレッシャーに強くなる

「好きこそが全て」は中学の先生がずっと言っていた言葉だという。「好きだから極められるし、好きだから楽しめる。それが成長につながる。そういう解釈ができるようになってから、いい言葉だなって思って……」と話す山田選手

「好きこそが全て」は中学の先生がずっと言っていた言葉だという。「好きだから極められるし、好きだから楽しめる。それが成長につながる。そういう解釈ができるようになってから、いい言葉だなって思って……」

──大学時代は体育学科でどんな日々を送っていましたか?

「元々社会学科だったのですが、2年生の時に転科試験を受けて体育学科に行きました。試合や遠征で抜けることも多くて、いろいろな先生や学生課の方にすごくお世話になったので、卒業後も年に1回ぐらいはあいさつに来ていました」

──大学を卒業して自衛隊に進んだのはどんな理由ですか?

「自衛隊でやることになれば近代五種の選手がたくさんいて、みんなで一緒に頑張れて競い合えるし、環境も整っていてすごくいいなと思いました。前回のリオデジャネイロオリンピックにスパーリングパートナーとして付いて行った時、宿舎で自衛隊の近代五種の監督と長い時間話をしました。それで、『東京オリンピックまで力を貸してくれないか』と言われて、『ではそれまで全力で頑張らせてください』と言って、自衛隊に入ることを決めました」

──フェンシングではなく近代五種のチームに所属しているのですか(※フェンシングは近代五種の種目の一つ)?

「自衛隊はフェンシングのチームを持っていないんです。近代五種の一員として置いてもらっています。本当に特例ですね。でも今フェンシングチームを作ろうかという話も上がりそうで、今後少しずつですけど自衛隊のフェンシングも盛り上がっていくのかなと思っています」

──試合前は緊張するタイプですか?

「めちゃくちゃ緊張します。たぶん普通の人の3倍ぐらい緊張するんじゃないかと思います(笑)。オリンピック期間中も選手村に一歩入った時からもう緊張で震えが止まらなくて、全然寝られないし、ずっとおなかを壊して胃が痛くてトイレに行きっぱなしという感じです。それをどうやってごまかしていくかと考えて、自分のことを第三者目線で見て、どうしてあげたらどういうふうに緊張がほぐれるか、自分を常に研究しています。それがだいぶはまってきて、緊張はしているけれど、その減らし方を自分の中で覚えてきた気がします。自分に対する理解が深まってきたなと思います」

──今回結果が残せたのは、どんな変化があったからでしょうか?

「卒業して1年目はそこそこ成績も出せていたのですが、それまでの延長でやっていました。2年目に結婚した妻もフェンシングの選手です。オリンピックの予選会で大事な試合がアジア選手権と世界選手権で、その二つに出られなかったらオリンピックに出られないというぐらいの大事な試合なのですが、アジア選手権の代表に入ると言われていた妻が外れてしまったんです。それで、今までは自分のために頑張っていたけど、次は自分と妻のために頑張らなければと思って、そこから競技に向き合う姿勢が変わり、自分をしっかり見るということを心掛けるようになりました。そのアジア選手権でいきなり優勝して、そこから勢いがついてきました。当時は世界ランキング100番近くの選手だったんです。それ以降、自分を見つめ直して妻の分も頑張ろうと思って一生懸命やってきた結果、今世界ランキング1位まできました。自分でも驚いています」

「チャンスがあれば全部の試合に出ようと思っています」

──金メダルを獲得して、オリンピックという大会の捉え方は変わりましたか?

「正直変わってないですね。これまで目指してきたものですし、これからも目指すもの。その意味で何も変わってなくて、今回メダルを取ったから変わったということはないです。次はさらに上に行くために、個人戦でもメダルを取ることが今後の課題になってきますし、そのために必要な部分をしっかり揃えていかなければならない。もう3年しかないですからね。選考まではもうあと2年ですから」

──オリンピックの後も大会に出場しているそうですが(9月11日に行われたSSP杯SAGAフェンシングエペジャパンランキングマッチに出場し優勝)、それはやはり金メダルがずっしりしたものではなかったと感じて、次を向いているからでしょうか。

「(SSP杯は)オリンピックのメンバー4人の中で出ていたのは僕だけでした。やっぱりすごいプレッシャーになりました。でもそこで取れたことが自信にもなったので、やっぱり(全日本選手権にも)出ておきたいなと思って出ることにしました。常に先を見て、大会で取るところは取って自信もつけて、しっかり人にも見てもらい、どんどん人を巻き込んでやっていくのが僕のスタイルだと思っています。だからそういうチャンスがあれば全部出ようと思っています」

──そうやっていけば3年後は、もしかしたらメダルが重いなと思えるかもしれないですね。

「そうですね。そして、『本当にめちゃくちゃ重いな、こんなの持ってられないよ』と思ったときがやめ時だと思っています」

<プロフィール>

山田優(やまだ・まさる)選手
1994年6月14日、三重県鳥羽市に生まれる。三重県立鳥羽高校を経て本学文理学部に入学、社会学科から体育学科に転科し卒業。在学中の2014年に世界フェンシングジュニア選手権で初優勝、4年時にはインカレ個人戦で優勝。卒業後は自衛隊に所属する。
2019年にW杯エペ団体で優勝、アジア選手権で金メダルを獲得する。2020年にはW杯グランプリ大会(ブダペスト)で、シニアの国際大会で初優勝を果たす。東京オリンピックではエペ団体で金メダル、個人では6位入賞を果たした。大会後の9月、国際フェンシング連盟が発表したエペの個人ランキングで初の1位となった。