いま、過去に学ぶ 天災からの大学復興

【前編】

取り組み・活動
2020年04月24日

世界的なパンデミック(感染爆発)とされる新型コロナウイルスの猛威は、いまだ止まることを知らない。過去、幾多の天災から復興し、立ち上がってきたわが国にとっても、不安の募る先の見えない日々が続いている。

しかし、止まない雨は無く、明けない夜も、また無い。
いつか再び、立ち上がり、復興する日は必ず、来る。そう信じて、いまできることを最大限する。そんなとき、過去に学ぶことも必要だろう。

大学にとっての“復興”は、延期している授業の再開、学び舎としての機能の復活である。
いまから遡ること98年前。未曾有の天災から、わずか1か月で“復興”を成し遂げた、勇ましい史実が、日本大学にはある――。

大学史に刻まれた「関東大震災」

1923年9月1日11時58分。未曾有の大災害が、日本の首都圏を襲った。関東大震災である。

内閣府により公開されている報告書によると、首都圏を襲った地震としては近代唯一であり、たった一日で最終的には10万人(105,385人)を超える死者を出した。

われわれの記憶に新しい1995年に起きた阪神淡路大震災で死者は6,434人、2011年の東日本大震災でも1万5899人であることを鑑みると、その被害の甚大さに改めて驚愕する。

家屋も293,387戸が潰れ、焼失した。

日本大学においても、三崎町(現・千代田区)の本館、駿河台分校(当時専門部歯科、高等工学校)および建築中の本所横網町所在の普通部(現・日大一中・高)校舎が全焼した。

それだけではない。当時、大学総長であった松岡康毅、講師・今福忍博士をはじめ、校友、学生数名が被災し死去した。

当時のことを記録した一冊の冊子がある。

『日本大學復興一年誌』と書かれたこの冊子は、関東大震災の起きた日からの一年間を、大学職員、学生の有志が日誌を元にまとめた記録である。

当時の様子を知る意味でも、授業再開までの1か月間を時系列で追ってみたい(旧字は資料ママ)。

「日本大學復興一年誌」=有志たちの足跡

地震発生時のことは、こうだ。

「大正12年9月1日、午前11時58分、地震発生。
続いて東京全市に火災起り、三崎町の本館、駿河台分校(当時専門部歯科、高等工学校)および建築中の本所横網町所在の普通部(現・日大一中・高)校舎がことごとく、火災に巻き込まれ焼失。
同日 総長男爵松岡康毅、葉山別邸で震災のため死去。
同日 講師今福忍博士を始め校友学生数名震火災のため死去。」

併せて、当日の様子も描写している。

「全市これ焦土、満目(まんもく)これ廃墟、花の都は見る影もなく、秋風徒に灰燼(かいじん)を誘ふて人の心を傷ましむるのみである。

大震来! 続いて起る祝融(しゅくゆう)の襲来に全東京はたちまちにして此の世ながらの生地獄の惨状を現出するに到った。我大学も震災により校舎の倒壊を免れたるものの、猛火に包まれて神田三崎町の本館を始め、駿河台の歯科、工科、大学予科校舎、本所横網町に建築中の附属中学の新館もこの厄災を免るることの出来なかったのは、洵(まこと)に千歳の恨事(こんじ)である。

九月一日午後一時頃、人は強震に畏怖して地に踞(きょ)してゐるうちに既に今川小路を嘗めつくした火は三崎町に飛び我が学園を残して神田劇場前より水道橋を踰(こ)えると見えたが各所に起る劫火(こうか)は四方より三層楼を囲むで遂に二時三十分如何ともすべからざるに至った。」

余震が続く地震もさることながら、発生した火災の被害が大きかった。倒壊は免れたものの、地震発生から1時間足らずで、火の粉はあっと言う間に大学校舎に拡がり、飲み込んだ。

それでも、有志たちはすぐに動き出す。

翌9月2日、本館が焼失した大学の事務所を、「麹町区富士見町少年審判所内に置く。」

「頻々(ひんぴん)として襲来する余震に日は暮れて、炎々天を(や)く呪ひの火に夜は明けた。累々たる惨死者の骸に埋れし市内は惨として面をそむけしめた。二日の朝、火焔尚天に(ちゅう)して本郷下谷一帯を焦土の巷と化し、いつ収るべしとも思はれなかったが、我大学に於ては灰燼なほ緩かなるうちに直ちに九段坂上なる少年審判所に避難所を設け、校友学生の訪問を受付けることとし、当分ここを仮事務に当てることとした。」

次いで3日、「三崎町焼跡に事務所(バラック建)建築の準備を始める。」

「三日は山岡理事の命により陸軍省、戒厳司令部、近衛師団司令部、東京市等を歴訪し天幕借用を申込むだ。かくて天幕拾数張を三崎町の焼跡に張り、此処(ここ)に本部を置き復興の歩を進めた。尚バラックの建物を起工し、仮事務所の建築を急ぐと共に、仮校舎の借入を交渉し、数日にして左記の通り決定した。

(昼)府下西巣鴨町池袋四八〇(当分学生避難所)
(夜)小石川区大塚町日本高等女学校及帝国女子専門学校」

まだ焼け落ちた校舎の柱々から焦げた匂いが立ち昇る中、有志たちは集合し、2日後には本館跡地に“復興ののろし”となるバラックを建てることを決めた。

「かくて焦土に立って復興の事業に着手し、山岡理事を総務に川口学監を委員長に、職員を委員として復興委員会を組織し、本部を三崎町の焼跡に置き、職員学生協力して焼跡の取片付に従事すると同時に、授業開始の準備として書類の整理、講師の避難先調べに専念した。」

そして、理事であった山岡萬之助を総務として教職員で「復興委員会」を組織し、別動隊として学生を中心とした「救護班」も組織した。

「大学の復興に努むると共に一面職員学生協力して救護班を組織し、この前古未曾有の異変に際し、共存共栄の本義に則り、救護事業に従事し盛んに活動を開始した。
即ち食糧、被服、家具等の寄贈品を集めて罹災者に配布し、東京市役所に於ける配給作業にも労力奉仕した。

歯科医学部に於ては左記の箇所に無料治療所を設け佐藤科長以下職員学生総出で施療した。
三崎町本部 芝公園 九段坂上 国技館 本郷麟祥院

宗教科校友学生は三崎町を始め西神田一帯の住人の立退先を調査し、区役所、察署、郵便局等に報告し、又本所被服廠()(ひふくしょう)跡に行はれた惨死者追悼会に参加した。

凄まじき迅速さである。この初動の功が、わずか1か月後の10月1日に、授業再開の偉業に繋がることになる。

教職員、学生ともに一丸となって“大学の復興”に尽力した、天災からの日々。ほぼ100年後のわれわれが、いま、新たな天災を前に、できることは何か、大いに考える必要がある。

(後編に続く)