日大アスリートの挑戦 ~明日の覇者へ

男子バレーボール部

スポーツ
2021年11月22日

インカレ3位で見えた頂点、日本一の“裾野”づくりを目指す

今年で創部90周年を迎えた本学男子バレーボール部は、昨シーズン、実に45年ぶりに全日本インカレ(全日本バレーボール大学男子選手権大会)で3位に返り咲いた。
一時は関東大学リーグの4部にまで降格した過去を払拭し、石渡監督はじめOBたちの結束と地道な積み重ねによって、まだ見ぬ頂点を目指して奮闘している。

「頂点を狙える体制づくり」

髙橋塁キャプテン

「大変さ」を身をもって感じているという髙橋塁キャプテン

「昨年、全カレで3位になって、前のキャプテンから『お前ここからが大変だぞ』って言われて」

そう苦笑いするのは、1年生からレギュラーとしてチームをけん引してきた、キャプテンの髙橋塁(商4年)だ。

チームでは同学年に、エースの下田正明(スポーツ科)ほか、西岡泰成(商)、水島健(同)、秦俊介(文理)ら、昨年の“全カレ3位”のレギュラーが顔を並べる。

部員数は現在64人。髙橋らが入学した2018年には、その2年前から本学にスポーツ科学部が創設されたことで推薦入学の枠が増え、1部リーグで戦えるだけの選手層が生まれた。日本一4連覇中の早稲田や強豪・東海大、日体大のように全日本クラスの選手はいないが、大学バレーボール界でも随一の大所帯となることで、チーム内での競争意識が芽生えはじめた。

「試合には(リベロを入れても)7人しか出られませんが、今年は2軍も大会に出て自分たちをアピールする場を作れたことが大きい」(髙橋)

一方で、新型コロナの影響で春季リーグもオープン戦扱いとなり、5月の黒鷲旗(※)も中止、チームのモチベーション維持に苦しんだ。オープン戦では1部リーグのライバル、中大、駒大、筑波、学芸大、早稲田に敗れ、2年生主体で臨んだ青学戦もフルセットの末、何とか勝利したものの、手応えはまだ「(富士山登山で例えるなら)三合目」と、自身もOBで日大三島高出身の石渡光一監督は言う。

実業団の東レで、Vリーグとなる前から、国内トップレベルを目の当たりにしてきた経験を買われ、2016年に監督に就任。かつて本学コーチ時代の教え子でもある小澤聡コーチと、実業団V1リーグのジェイテクトでアシスタントコーチとしてリーグ優勝を経験した細田寛人コーチとで役割を分担して、「頂点を狙える体制づくり」を目指してきた。

「それでも駒大に負けた後から意識が変わりました。実力的には七合目を越えるものはある」(石渡監督)

※実業団、大学、高校の国内トップ16チームが出場するトーナメント大会

チーム内競争で増した攻撃力

昨秋の全日本インカレでは、驚異的な粘りと勝負強さを見せた。

初戦の立命館大戦でセットカウント3-1で白星を飾ると、続く、2018年インカレ準Vの第7シード・福山平成大戦は、2セット先取の後に2セットを取られる激戦となり、最終5セット目を15-10で再逆転勝ちを収めて勢いに乗った。翌日のベスト4を懸けた第2シード・東海大戦は、取りつ取られつのシーソーゲームで、再びフルセットにもつれ込み、最後は3点差で勝利をもぎ取った。準決勝の相手・日体大には力及ばずセットを取れずに敗退したが、3位決定戦での順大戦では、ストレート勝ちで“全カレ3位”をつかみ取った。

中でも最後までエースとしてコートに立ち続け、チーム一の得点源となった下田の存在は大きかった。

「大学に入ってから、身体的、技術的にも成長できました。体重は食事と寮(八幡山)のトレーニング施設での筋トレの成果が出て、1年生の時から8kg増えて体脂肪は10% くらい。技術では(3位決定戦の)順大戦でも使った軟打も覚えました」(下田)

今年は、昨年のキャプテンで正セッターだった谷越陽介(サフィルヴァ北海道=V2)が抜けた穴を3年生の三木大成(文理)と4年生の笹岡歩夢(文理)が競って埋め、昨インカレでスパイク賞を受賞した西岡ともう一人のミドルブロッカーには、期待のルーキー・栁澤賢(文理)が頭角を現している。また、ビーチバレーに参戦し、見事大会優勝を飾ったチーム一のユーティリティプレイヤーの4年・水島と組んだ、2年・市川翔太(文理)もフィジカル能力に長けた成長株。チームとしては、昨年にも増して、攻撃の選択肢が増えつつある。

石渡監督は、「試合で20点過ぎに何ができるか。20点までは皆大活躍できますから」と言う。

〝全カレ3位〟までいったからこそ感じた、勝負どころでの精神力の必要性。タフな場面を経験し、それを乗り越えた者だけが、頂点に立つことを許される。

「母校を見てくれないか?」

石渡光一監督

いまだV1リーグの東レでも相談役を務める“バレーボール歴47年”の石渡光一監督

前任者の入澤秀寛氏から「母校を見てくれないか?」と相談を受けた5年前、石渡監督は所属していた東レ(三島工場)から社員代表として三島市の市会議員を5期20年終えるちょうど直前だった。

「東レでバレー選手として30歳(1990年)で引退して、東京に転勤になった時、バレー部が4部落ちしていたんです。入澤さんから相談を受けた時、あの頃、東京で営業をやりながら、コーチとして学生と一緒に合宿所に寝泊まりして教えていた記憶が蘇りました」

何とかせにゃならん。野球好きな頑固一徹の父に「バレーがやりたい」と言って許された中学2年生の時から、口が裂けても辞めるとは言えない、と続けてきたバレーボール。育ててもらった恩義がある。ましてや母校を1部に上げた先輩たっての依頼、断れるはずはなかった。

部には上位校にも引けを取らない寮やトレーニング施設があり、部員もスポーツ科学部創設によって確保できた。自ら固めた分業制によるコーチング体制も機能しはじめた。そして、最も大切な選手育成。石渡監督は自らの指導ポリシーを、こう語る。

「私は一貫して社会人教育がチームを強くすると考えています。バレーを通して、社会と地域に貢献できる人間力を育てること。世の中、偉い人が偉くなるんじゃない。偉くなった人にその役割をする権利と責任があるんです。だから、4年が部長、3年が課長、2年が係長、1年が平社員だと常々言ってます。選手各々が自分の役割をしてくれ、人間力なくして競技力の向上なし、と」

責任を全うしようと思えば、おのずとリーダーシップやコミュニケーションスキルが求められる。試合に出るだけではない。

OBのネットワークも重要視する。全国に行けば、OBを集めて熱を伝えて回る。かつて同じユニフォームを着た同志たちの力は絶大だと、OBの一人として感じている石渡監督。

上位校に負けないだけの、OBによる“日大バレーボール部”のネットワークとサポートもまた、チーム強化につながるという。

「裾野が日本一になれたら、あとは勝手に上がるので」

日本一の山頂(十合目)も見えた。しかし、富士の山は、裾野の広さもまた日本一なのだ。