監督の哲学

01 柔道部監督 金野 潤01 柔道部監督 金野 潤

「いつも柔道のことしか考えていない人」と評する原沢選手の言葉に、「褒められているのか、バカにされてるのか分からないな」と人懐こい笑顔を見せる金野監督。

現役時代は、小川直也(明治大学~JRA)の好敵手として知られ、2度の全日本制覇を果たすなど輝かしい実績を誇る。昨年12月、27年間務めたコーチから男子柔道部監督に就任。創部100年を超える伝統を受け継ぎ、その重みも、求められるものも十分に分かっているが、「勝利を目指すことを通じて、社会に有益な人材を輩出するのが大学スポーツの務め」ということを常に心に置いている。

「オリンピックの金メダルも、学生チャンピオンになることも大事だが、その向こうにもっと違う物がある。勝つことで選手たちに何を植え付けてあげられるのか」を念頭に置いて指導し、競技を通じて「選手たちに幸せな人生を送ってほしい」と願う。

その一方で選手たちには「純粋に勝利を目指せ」と発破をかける。「努力しているからいいんだとか絶対に言うなと。そういう場所を与えられている以上、徹底的に勝ちにこだわらないとダメだし、努力だけでは意味がない」と説くその裏には、勝つことに辿り着く方法を考えるという過程が、将来、社会に出て役立つはずだという信念があるからだ。

指導者としての経験は長いが、最初の頃は部を強くしようという思いが立ちすぎて「厳しくすることが目的になっていた」ため、上手くいかなかった。
「叱っているうちに、だんだん自分の心まで本当の鬼になってしまうような…。何のために叱っているのか分からなくなり、選手たちも傷つけてしまった。そして、それでは強くならなかった」と当時を振り返る。やがて「俺の力で選手を育てる」という傲りがあったことに気づき、考えを変えた。

「選手が自ら育つ力を持っていることを信じてあげる。私はちょっと陽を当てたり、水や肥料をあげるといったサポートをするのが役割。ガーデナーのような思いを持ってやるようになりました(笑)」

若い頃は、選手が思うように応えてくれないと苛立っていたが、今は選手の状態やタイプを見極めながら「伸びてくるまで待ってあげられる」ようになった。ダメなときは「厳格に言う」が、失敗を叱らずに、自分たちで考えさせる。指導者も時代や学生の変化を考慮する必要があると感じている。
「彼らを変えようと思っていては、彼らは変わってくれない。自分がどうあわせてあげられるか、変わってあげられるかが大事だと思う」

金野監督の柔軟な思考は、柔道の練習にも反映されている。読書でも、テレビやインターネットを見ていても「いつもアンテナを張っている」と言い、面白いと思ったものには積極的にアプローチする。これまでに格闘家や柔術家との交流戦や技術指導を仰いだ。

ユニークなところでは、真田一族の末裔という“忍者”を招いて忍術講義を行った。
「最初『忍者が来る』と言ったら、学生たちはみんな半信半疑な様子だった。しかし、先生の忍術というより体術で、実際に投げられたり押し潰されたりすると目の色が変わった。終わる頃には多くの質問が出たし、私も非常にためになった」
今後も「学生たちに刺激を与える」ための企画を検討中だという。

さらに金野監督は、選手たちに「能動的になること」を求める。「トップレベルの選手はみんな、自分でやるんだという気持ちが非常に強い。誰かに助けてもらおうと思っていない人がチャンピオンになる。そうした選手の能動的なものがあってこそ、指導者の力が活かせる」と話す。それは「待つことと、失敗させること、失敗を叱らないこと」であり、自分たちで考えさせることを多くして、本当に必要な時にだけ手を貸す。選手の個性や成長具合によって指導のさじ加減は異なるが、様子を見ながら少しずつ手を引いていって、最終的には「監督のいらないチーム」にすることを目指している。

「このあいだ『俺が全日本の強化委員長になって、日大が弱くなるって言われてるらしい』って選手に話したら、『先生がいなくても全然関係ないですよ』って返ってきた。そういうチームになりつつある」

全日本学生の団体と全日本学生柔道体重別団体の2冠を目指す一方、リオ後には乞われて全日本の強化委員長という重責を担うことになった。
「ジャパンの強化と日大の日本一、2つの目標をしっかり成し遂げることが私の宿命。全力を尽くす」と語る穏やかな表情の中に、秘めたる闘志が垣間見えた。

Profile

金野 潤[こんの じゅん]
1967年生まれ。東京都出身。日本大学第一高校卒。文理学部卒。総合社会情報研究科人間科学専攻修了。文理学部准教授、日大男子柔道部監督。
日大入学後、全日本ジュニアや学生体重別選手権で準優勝して一躍注目を集め、同年代で後の五輪メダリスト・小川直也選手と常にしのぎを削ってきた。
1994年の全日本選手権で悲願の初優勝、1997年の同大会も強豪を次々と下して30歳にして2度目の優勝を飾る。長きにわたり第一線で活躍するも、世界選手権や五輪とは結局無縁だった。1989年に母校のコーチに就任、まだ無名だった原沢選手の才能を見出し、メダリストに育て上げた。リオ後には、東京五輪に向けた全日本柔道連盟の強化委員長に抜擢され、男子柔道部監督と二足のわらじを履く。