監督の哲学

03 ヨット部監督 渡邉整市03 ヨット部監督 渡邉整市

“五輪” には思い入れがある。1964年の東京五輪を目指して好成績を挙げていた。強化企業から声が掛かる自信があったが、結局声は掛からずオリンピアンになれなかった。「悲しい思いを1年以上した」と、競技者としてヨットを続ける自信をなくし、指導者になれと言われ悩んだという。

転機は日大高校(日吉)の教員となって2年目。ヨット部を作って教えてほしいという生徒の熱意に口説き落とされ、指導者としてのスタートを切った。高校の全国大会で4度優勝し、その後、大学からコーチとしての声が掛かり、松田健次郎監督の下で後輩たちを熱血指導していく。

45歳の時、松田監督から「おまえ、監督をやらないか」と言われた。すでに、事情により合宿所にほとんど来れない松田監督から、全面的に指導を任されていたものの「最初は断った」という。これまでは松田健次郎氏がいての自分だったが、「全員の気持ちが渡邉でいいんだということでないと、監督になっても周りがサポートしてくれないのでは」と不安があった。
しかし、教え子の若いOBたちの支持を受け、監督の座についた。「学生が基本」という気持ちから合宿所で学生と寝食を共にする一方、「ヨットをやりたいがお金が…」という地方出身の学生を数人、自宅に下宿させた。「家内も“いいでしょう”と言ってくれ、15年ほど続けた。あの頃のことを思うと、今でも感謝してやまない」と当時を懐かしむ。

合宿所の食堂の壁には、『努力をする者 天を制する』と書道家が書いた一際大きな書が架かっている。渡邊監督が信念とする言葉だ。
「人から言われるんじゃなくて、自分から努力しなさいと。努力というのは、結果が早く出る者と遅く出る者がいるけれども、自分が納得する練習は決して嘘をつかないので、きちっと練習しなさいということ」

だから練習を真面目にしている選手は1年生でもレギュラーに起用する。11月のインカレまではいろんなスタンスで選手たちにチャンスを与え、期待以上に走って、結果を出せば周囲もレギュラーとして認めざるを得なくなる。

もうひとつ、信念としていることは「迷わないこと」。試合に出すメンバーを選ぶ時に、風や海の状況を見て“勝てる選手”を素早く決断する。
「弱い風で成績の良い選手もいれば、中風や強風に強い選手もいる。1レース目の結果が悪くても、2レース目では走るかもしれないという気持ちもある。そうした見極めと判断は難しいが、迷ってはいけない。いつでも冷静に的確な指示を出せるように、精神的に強くならなければいけない。こちらが迷うと選手たちも迷うので、絶対に迷わないようにしてきた」
そして選手たちに言う。勝った時は「君たちの実力が出たんだ」と誉め、負けた時は「作戦の失敗。監督の技量がなかったんだ」と。

ヨットの指導者となって50年以上、監督歴は29年目となった。今でも覚えているのは、全日本インカレの優勝報告で大学へ言った時、1度目は「まぐれだよ」、2度目は「伝統を作りなさい」と言われ、3度目で「やっと日大ヨット部の伝統ができた。あとは優勝回数を増やしなさい、伝統を培っていきなさい」と当時の体育局長から言われたこと。その言葉に発奮して「全日本の優勝回数を一番多い大学にしよう」と誓った。
そして全日本インカレの優勝回数(総合11回、470級8回、スナイプ12回)は全部他校を抜いた。教え子は世界選手権で優勝を飾り、オリンピックに選手を何人も送り出し、メダルも獲らせた。「意地で伝統を作ってここまできた」と笑うが、あと達成していないのは金メダリストだけ。
「東京五輪で誰か金メダルを獲ってくれたら、もう完結。たぶん、一番の幸せ者だな」

最近は練習と試合の環境を作ることを念頭に置き、指導はコーチたちにまかせている。指導のためボートに乗ることは少なくなったが、葉山の海に出れば今も旧知のヨットマンから「先生の顔が見えないと寂しいよ」と声が掛かる。海を見つめる視線の先には、2020年の夏、歓喜の風を受けてトップで帰ってくるJAPANのヨットが見えているのかもしれない。

Profile

渡邉 整市[わたなべ せいいち]
1944年生まれ。東京都出身。1967年文理学部卒。
日大高校教員を務める傍ら、1971年より日大ヨット部コーチを務め、1989年に監督就任。
ヨットの名門としての地位を築き上げると共に、日本人初となるシドニー五輪銅メダリスト・関一人をはじめ、数多くのオリンピック選手を育てた。現在、学生を指導する一方、東京・日出学園校長および日本470協会会長を務める。