監督の哲学

07 重量挙部 難波 謙二07 重量挙部 難波 謙二

熱戦が繰り広げられるインカレの試合会場内に、その姿はなかった。

「僕はほとんど現場のコーチに任せます。試合中も、あまり指示はしません」と、会場をガラス越しに見下ろせる2階のロビーから、選手たちの戦いぶりを静かに見守っている、それが難波監督のスタイルだ。

高校時代はインターハイ優勝や国体優勝(少年の部60kg級)、日本高校記録の樹立など、オリンピック出場にも手が届くほどの輝かしい実績を誇っていたが、本学入学後は度重なるケガなどに悩まされ、思うような結果を残せなかった。卒業後は、教員免許取得を目指して文理学部の聴講生として学び直すと共に、部のコーチとして指導者の道を歩み始めた。

「もう1回、自分を鍛え直すために、指導者ではあるけれども一番大変な仕事をやる。そうでなければ、本当の意味で学生の気持ちを感じ取ることができない」と考え、学生と同じ寮に住み、早朝から便所掃除や雑巾掛けを率先して行った。その姿を見て、当初は「何でコーチがあんなことをやるんだ」と揶揄する声もあったが、やがてそれは年が近い学生たちとのコミュニケーションを生み、彼らの精神面でのサポートに役立つことになったという。 一度は地元・山形で中学校の教員を務めていたが、2年が経とうとした頃、当時の監督から「もう一度、大学でやってみないか」と誘われ、東京に戻ってきた。
多忙な監督に代わり、現場のコーチとして指導を任せられると、2年目の1988年に創部初の東日本インカレと全日本インカレの総合優勝を掴み、そこから4連覇を達成した。しかし、その指導法は「選手は全て私の言うことを聞け」というカリスマ性の強いやり方だった。当時の選手で、現在は監督のサポート役を務める新井健一コーチ(生産工学部専任講師)も、「難波先生はとにかく我々を強くするという一心で、情熱を持って学生に接していました。練習が深夜に及ぶことも珍しくなかったですが、先生はずっといらっしゃいました」と話す。

「私もまだ若かったので、強くするのが全てで、結果が出ればいいんだって考えていました。ただ残念なことに、その頃の卒業生はあまり現場に足を運んでくれる人がいない。そういうさみしさはありますね」 

だが、12年に及ぶコーチ生活の中で、学生たちの競技以外の生活や進路を見るにつれ、次第に「スポーツだけやっていればいいのか」という疑問が大きくなっていき、2000年に監督に就任する頃には、指導者としての考え方・やり方も大きく様変わりしていた。 

その年の新入生だった竹俣壽郎コーチ(生物資源科学部専任講師)は、入部前に聞いていたイメージと実際との違いに戸惑ったと言う。

「難波先生は厳しいと皆さん口々におっしゃっていたんですが、入部してもそういう雰囲気ではなく、1年生のことをとても気にかけてくれたり、気軽に声を掛けてくださったり…。練習にはさほど足を運ばれず、現場はコーチの方に任せて運営するという形になっていました」

そうした変革は、就任2年目に東日本インカレ・全日本インカレを5年ぶりに制するという成果に結びついた。
勝った喜びと同時に、「試合に出る8人の選手はもちろん、試合に出ない選手たちやサポートする皆が同じ気持ちにならないと、本当の意味で団体戦には勝てないということを強く感じました」と振り返る。今回のインカレ6連覇という偉業にも「いろいろ厳しい時もありましたが、やはり、我々が一丸になっていないと出来なかったと思います。OBたちも多くの人が来てくれています」。

今では、現場のことは「適材適所で役割を与えられて、それがうまく機能している」(新井コーチ)と9名いるコーチ陣に任せ、選手に対しても「練習場で技術的な指導はほとんどありません。学生たちの気持ちを育てることが大事だと思っています」(竹俣コーチ)と、多くを手助けするのではなく、選手が自分で考え、自分で目標を持って取り組むようにさせている。自己主張が強い今の選手たちに対し、「自分が言ったことへの責任を持たせる形にしたのが良かったのでしょうね。何よりも学業優先、学校へちゃんと行きなさいと言っています」と笑う難波監督。

最後に「重量挙げとは?」と問うと、「自分が努力した分、返ってくる競技。インカレの選手にならなくても、4年間でこれだけ記録が伸びたという実績は残る。頑張れば頑張るほど数字にはっきりと出ますから、自分の姿を映し出す鏡のようなもの。僕はそう感じています」という難波監督の言葉に、新井・竹俣両コーチも大きく頷いていた。

Profile

難波 謙二[なんば・けんじ]1961年生まれ。山形県出身。
1984年経済学部卒。生物資源科学部教授。卒業後に教員免許を取得して山形県の中学校教員となると、日本中学校体育連盟におけるウエイトリフティング専門部会の立ち上げに尽力。1988年から本学コーチを12年間務めた後、2000年に監督就任。チームを率いた平成時代30回のインカレで、実に15回も総合優勝へと導いた。日本ウエイトリフティング協会理事。