我、プロとして

Vol.5 佐藤公一郎 氏【後編】
美濃焼職人(伝統工芸士)(1977年文理学部史学科卒)

卒業生
2020年12月31日

器は盛る料理が美味しくみえなければ
意味がありませんから

佐藤さんは、大学を卒業とともに焼き物の世界に身を投じて以来、43年。試行錯誤を繰り返し、古来からの常套と独自の作風を絶妙なバランスで保ちながら、日々、焼き物に向き合う。この積み重ねてきた年輪が、いつしか「伝統工芸士」という肩書まで担うことに。佐藤さんの求道心が満たされるのは、まだまだ先だ。

料理が美味しく映る器を

美濃焼が国内シェアNo.1である理由が分かる一枚。(お皿)

美濃焼が国内シェアNo.1である理由が分かる一枚。まるで柿の風味や味まで表現しているかのよう

佐藤さんは、こだわりの人だ。

取材中、旬の柿や水出しの麦茶、小豆のぜんざいなど、こだわりの品々をご相伴に預かった。

「この麦茶は、前に赤坂にある虎谷本店で食事したとき、最初に出てきたお茶の美味しさに驚いてね。麦茶は飛騨高山で採れた麦を使った麦茶で、水を入れたやかんに麦をいれて5~6時間浸し、そのまま呑む。香ばしい良い香りがするんです」

そのときの感動を昨日のことのように語りながら「割りと食い意地張ってるんで、僕」と、佐藤さんは笑う。「で、このぜんざいの小豆は、ね」と、話は尽きない。

釣りも、そうだ。

幼少期から、ハヤ釣りを愉しみ、大学を卒業して地元に帰ってくると今度は鯉釣りと父親も好きだったアユ釣りも始めると、あっと言う間にハマった。自分のメールアドレスにも入れている最後の数字「75」は、自身が一日でかけたアユの数だそうだ。

趣味は、創る焼き物にも繋がる。

佐藤さん作「黄瀬戸 草原紋 鮎皿」。

佐藤さん作「黄瀬戸 草原紋 鮎皿」。ここに長良川の天然アユを焼いて盛りつける。贅沢な馳走だ

黄瀬戸に緑色の紋がにじんだ鮎皿は、天然アユのあの独特な瓜のような薫りをいまにも醸し出してきそうな、至高の一品だ。

こうして、名匠の一人として作品を生み出し続ける佐藤さんも、焼き物を始めたのは、大学卒業後の22歳。隣町の多治見市内にあった「岐阜県陶磁器試験場」(現セラミックス研究所)で研修生として2年間、基礎を学び、実家に戻って父と伯父の下で、日々、実地で体得していった。

「色んな手伝いしながら、最初に覚えたのは、窯の炊き方ですね。ガスの窯で、手伝いながら身に付けて。そのときに、大事なのが、温度と空気の調整です」

窯の温度は、摂氏1250℃にもなり、焼いている時の空気調整で酸素が多すぎても少なすぎてもいけない。

「僕の場合は、まず『自分が使ってみたい器のイメージ』から作ります。はっきりとしたイメージがないと形にはできない。なおかつ食器ですから、デザインを考える要素は色々ありますが、例えば、お刺身を盛る向付(むこうづけ)であれば、『刺身を盛ったときに、どれくらいの深さが美味しくみえるか』。器は盛る料理が美味しくみえなければ、意味がありませんから」

美しい器に、盛りたい料理を作る。美味しい料理を、盛りたい器を作る。どちらが先でも、作り手の思いが共鳴し合えば、出来栄えは増幅する。まさに食のハーモニーだ。

梅花皮(かいらぎ)志野とミシュラン

こんなことがあった。

「東京で展示販売会をしていたときに、ある寿司職人の方がいらっしゃてね」

聞けば、独立したいから黄瀬戸の器を作って欲しい、と湯呑やおしぼり置き、台のついた器など、手書きのイラストも添えて特注を受けた。いくつ作れば良いのか心配だったが、言われた席数は6席分。結局、都合5種類の焼き物を春に発注され、年内に収めたそうだ。

「でも、なかなか独立の連絡がないな、と思っていたら、3年近くたってハガキで『独立して店が持てました』と連絡がきました」

早速、東京に来たときに店に顔を出してみると、本当に6席しかない品のある高級店だった。

「そのときは全部ご馳走になって、最後に食べた握り14艦は、もう寿司の概念が変わるほど。カルチャーショックでしたね(笑)」

今年2020年の年賀状には、さらに驚かされた。

「『ミシュランの一つ星を頂きました』って書いてあったんですよ(笑)。いや、びっくりしました。今ではそのお店に寄るのが、東京に行く楽しみの一つになっていますね」

もちろん、料金はそれなりにする。

「確かに高いんですけどね(笑)。でも自分の作った湯呑で出されたお茶をいつも『呑みやすいなぁ、これ』って思いながら呑んでます(笑)」

ミシュランの一つ星に選ばれた名店が、開店する3年以上前から、こだわって発注した佐藤さんの黄瀬戸。名匠は名匠を知る。ミシュランの選定士も、きっと名匠たちの業にうなったに違いない。

佐藤さんにとっても、嬉しい椿事となった。

湯呑なら500個ほども入るスペースをもつ窯。

窯は湯呑なら500個ほども入るスペースが。鼠志野コーヒー碗皿や灰釉の土瓶がみえる

そんな佐藤さんが、最近、思い始めたことがある。

「これまではほぼ実用品を作っていたんですが、そろそろ作品としての焼き物を作ってみたいってね。それが一つ。もう一つは、同じ実用品でも、塊のような重い焼き物。実用品ってどうしても普段使うものだから、重いものよりも、軽いものが好まれる。それでどうしても軽くなるように軽くなるように作っています。そうすれば重ねても良いですからね。だから重さに制約も出てきてしまう。でも、そういうことを一切考えずに、『これは面白い器だ』っていうものを作ってみたい。いわば彫刻的な器ですね」

今年65歳になって、より思いは増しているそうだ。

ものづくりは好きに作るが一番

伝統工芸である焼き物文化を「伝統工芸士」として地場産業を守り続けてきた佐藤さん。その一方で、“伝統”を重んじすることよりも、作り手は好きに好きなものを作れば良い、と達観してもいる。

「僕は自分の手で作りだすってことが好きなんです。好きじゃないと続かないでしょ? 絵を描くことも、音楽や文章を書くことも、すべてが“ものづくり”。やりたいと思う人が、好きにやれば良いんですよ」

そういうことを考えていたときに、ふっと思ったことがある。

「教育も“ものづくり”ならぬ“人づくり”だなって。だから、大きな意味で“ものづくり”の中の一部なんだって。そういう捉え方をすると僕の中では腑に落ちるところが沢山あって。だから、“ものづくり”が人相手が良い人は教育者になり、木が好きな人は家具を作ったり大工になる」

出張講師として、地元の小学校を回る佐藤さんにとって、教育の現場は遠いものではない。子供たちが自分の好きなように粘土を触って、陶器を作っている姿を、見続けてきた結果、押し付けがプラスにならないことに気づいた。

「食器を作っていてもね、買うお客さんは、十中八九、作り手のこちらの思惑通りには使ってはくれない(笑)。でも、僕はそれで良いと思うんです。その人がその器をみて想像できることってあるんで。だから、お客さんには『是非、ご自身のお好きな使い方をして下さい』って思います。僕は考え方が凝り固まると、作るものも固くなると思ってるんです。自分だけだと限界がありますから。人の考え方やものの見方、解釈に気づかされることも多いですよ」

年間100本観ていた映画も、訪れた和菓子屋のお茶や江戸前寿司の握りも、仕事場で流れるクラシックの曲たちも。

きっと、佐藤さんにとっては、“ものづくり”の名匠たちに、“気付かされた”名作なんだと、思えば、こちらも腑に落ちる。

<プロフィール>
佐藤公一郎(さとう・こういちろう)

1955年3月24日、岐阜県可児市生まれ。1977年文理学部史学科卒。
本学卒業後、現セラミックス研究所で研修生として2年間基礎を学び、家業である「佐藤陶藝」手伝い始める。美濃焼の中でも、志野焼、黄瀬戸を主に創作。
1990年代中盤からは、求められて地元小学校にて美濃焼の文化・創作の講演活動を続け、2005年には「美濃焼伝統工芸士」として経済産業大臣認定を受けた。
毎年、東京・青山にて個展も開催。大好きな鮎の友釣りは生活の一部。