宮崎日大・男子駅伝が快挙
創部9年で“都大路”7位入賞!

付属校
2020年02月04日

2019年12月22日(日)。場所は京都。全国高校駅伝の聖地と呼ばれる、通称“都大路(みやこおおじ)”で、また新たなドラマが生まれた―。

午後0時半、号砲が鳴った。冬の京都は盆地ゆえの底冷えから、この大会では雪が舞うことも少なくない。が、この日は気温10℃、湿度65%、ほぼ無風と、走者にとってこの上ないコンディション、宮崎日大・藤井周一監督は、“追い風”を感じていた。

宮崎県大会で王者・小林高校を破り、前年に続き2年連続でこの地への切符を手にした37歳の若き指導者は、2011年春の着任以来、最高の舞台に、最強のメンバーで臨んだ。結果、創部わずか9年の宮崎日大駅伝部は、出場全58校中、初入賞となる7位でフィニッシュを飾った。

「監督と一緒に都大路を目指したかった」

正式名称「全国高等学校駅伝競走大会」。

フルマラソン42.195kmの距離を、7区7人の選手たちが襷(たすき)をつないで走破する。男子は第70回となる記念大会で、県記録を塗り替えての快挙は、大会翌日、地元・宮崎のメディアでも大きく取り上げられた。

宮崎日大・駅伝部は、創部年では、智辯和歌山(48位/和歌山)、東洋大牛久(29位/茨城)に次ぐ新興のチームで、宮崎日大よりも先にゴールした上位6校は、優勝の仙台育英(6年連続30回目/宮城)を筆頭に、2位倉敷(42年連続42回目/岡山)、3位佐久長聖(22年連続22回目/長野)、4位九州学院(16年連続39回目/南九州)、5位学法石川(9年連続11回目/石川)、6位大分東明(9年連続18回目/大分)と、いずれも長年連続出場、二桁出場を誇る“常勝校”ばかり。

そんな中、宮崎日大は、1区の2年生・甲斐涼介が「想定した12~15位の最上位で(襷を)つないでくれた。100点です」と、監督の藤井が話す上々のスタートを切ると、続く、2区の岡亮介、3区の湯浅仁、4区の佐藤航希の3年生トリオが踏ん張り、11位と一つ順位上げてレースは終盤戦にもつれ込んだ。

曳田選手

「トラックでは絶対に勝てると思っていた」曳田選手

「前半である程度上位の位置に持ってこられる手応えはあった。勝負は後半でした」(藤井監督)。5区松井遼太(2年)が3kmのスプリント区間を大崩れせずに持ちこたえると、6区城戸洸輝(3年)が弾けた。前大会の2018年の師走、不運にも両足脛(すね)疲労骨折により出場が叶わなかった悔しさは、あわや区間記録か、と思わせる快走で下り坂で5人を抜き去り、アンカー・曵田道斗にすべてを託した。曵田は前年も同じ7区を1年生ながら任され、見事に初出場で12位のゴールを駆け抜けていた。

曵田は言う。「都大路の2週間くらい前に(監督から7区と)言われました」。自分はプレッシャーはそこまで感じる方ではないんです、と相好を崩す17歳の青年は、同郷のライバル校・小林高校からの誘いを断って、藤井のいる宮崎日大の門をまたいだ。結果、2年連続の全国大会出場は、己の信じた道が間違っていなかったことを自ら証明することになった。個人として申し分無い結果を称えると、「でも」と曵田は続けた。

「伝統校じゃないところで、(藤井)監督と一緒に都大路を目指したかった。それが(宮崎日大)ここを選んだ理由です」

城戸から預かった襷をかけた曵田は、最後、トラックで同じ九州の自由ケ丘高を抜き去り、宮崎県記録となる2時間2分57秒でフィニッシュ。見事に期待に応えた。

熱量が動かした少年たちの心

前キャプテンの湯浅選手

藤井監督が将来性を語る、前キャプテンの湯浅

曵田だけでなく、湯浅、甲斐、城戸らが口を揃えるのが、監督・藤井に入学前に勧誘された時に感じた熱量だ。

「俺と一緒に都大路に行こう」
「0から日本一を目指そう」

言葉は違えど、藤井の発した言葉は、少年たちの心を動かした。キャプテンを務めた湯浅は言う。

「(監督は)熱い人、情熱を持った人。一人ひとりに真摯に向き合ってくれますし、ものすごく信頼していますし。かっこいい大人だなぁ、と思います」

その湯浅のバトンを受ける次期キャプテンの甲斐は、「生活面もしっかり見て下さっていての(キャプテンの)指名なのでやるしかない」と意気に感じる。

今回、最初に話を聞いた城戸が藤井の第一印象について「とにかく優しかった」と話していたと藤井本人に伝えると、「それは無いでしょう」と照れながら「でも、確かに城戸と湯浅、佐藤の3人の入学が決まった時に、日本一が目指せるかも知れない、と思いましたね」と振り返った。

寮の玄関に飾られた宮崎日大駅部の部訓

寮の玄関に飾られた宮崎日大駅部の部訓

宮崎日大駅伝部を訪問したのは、“都大路”からちょうど1か月経った寒い日、寮の玄関を入ると、正面に額に入った文字が飾ってあった。

「積極果敢」

監督である藤井が、高校時代に「ハチマキに入れてた言葉です」(藤井)がそのまま部訓となった。確かに“熱い”。その“熱量”が創部8年目にして全国大会に出場に導き、今冬、2年連続出場して入賞にまで押し上げた。

長距離“エリート”監督の岐路

藤井監督

駅伝部の監督になると必要性にかられ、マイクロバスの中型免許も取った

藤井は長距離ランナーとして世に言う“エリート街道”を歩んできた。

生まれ育った兵庫の名門・西脇工業でルーキーにして“都大路”の5区を任され区間賞、そして優勝。翌年はより長い4区でも区間賞の活躍で、母校は全国大会V7を果たした。大学も箱根駅伝優勝12回(中央大=14回、早稲田大=13回に次ぐ歴代3位)を誇る日本大学に進み、箱根こそ優勝はならなかったものの、4年生で出場した出雲駅伝でアンカーを務め、優勝候補・駒沢大をかわして優勝をもたらした。

大学卒業後も、大迫傑、佐藤悠基らオリンピック選手を輩出した日清食品グループに入社し、元旦の実業団駅伝で注目を浴びた。そんな藤井に宮崎日大から誘いがあったのは、ちょうど10年前、実業団選手として7年目を迎えていた。

それまでも指導者として請われたことはあったが、この時ばかりは普段人に相談しない藤井が白水昭興監督に相談した。監督からは「こういうのは縁だから行くべきだ」と言われた。

「正直、引き留めて欲しかったんですけどね(笑)。でも、(それまでも)色んな話があったのに、あの時だけ(白水監督に)相談したのは、今思えば、『引退かな』というのが自分的にもあったのかと思います」

大学時代、商学部だった藤井だが、社会人になってから母校・日大文理学部で科目等履修生として保健体育の教職資格を取っていたことも生きた。その際には、現日大陸上競技部監督の井部誠一氏に「本当にお世話になった」と今も恩義は忘れていない。

辿り着いた「3年計画」

「やるなら何もないところからやってみたかった」。

新たに指導者の道を選んだ藤井は、思い切って父の故郷でもあった宮崎の地に、家族とともに移り住んだ。

宮崎と言えば旭化成。旭化成と言えば宮崎。長距離人でなくとも、知られる長距離大国に乗り込み、真っ先に宗茂・猛兄弟に挨拶に行った。

「その時、言われたのが『(日本全国で)一番大変なところに来たぞ』」だった。正直、最初は何のことか分からなかった。しかし、時が経つにつれ、その意味が分かってきた。

「宮崎は伝統ある小林高校が圧倒的に強かったんです」と藤井。確かに小林高校は、“都大路”に実に55回出場の最多記録を持つほどの、全国にも轟く駅伝伝統校。長年かけて積み上げられた牙城は、容易に崩せるものではなかった。強い理由もあった。

「(小林高校の)監督の横山先生は、私も尊敬していました」。ライバルでありながら、横山美和(よしかず)先生の存在の大きさの前には、藤井も素直に認めるよりなかった。

しかし、その横山先生、藤井、小林高校、そして宮崎日大にとって、転機が訪れる。横山先生が宮崎南高校に転任した。3年前、2017年のことだった。藤井が宮崎日大に着任して6年の歳月が流れていた。

練習中の駅伝部

学校から車で10分ほどにある公園は藤井監督曰く「こうした場所が(宮崎には)沢山ある」

「あの時、目が覚めたんです。(横山先生が居なくなるなら)これは勝たないといけないと」

それまでもがむしゃらに泳いできたつもりが、水面から顔を出すと全然進んでいないと感じた。従来の指導法を大幅に見直し、多くを語る関西人気質をオブラートに包んだ。

「シンプルに1つか2つ。あれこれ言っても(生徒の)頭に残らないと思ったんですよね」

毎回、言うことが違ってもまたいけない。じっと生徒を見て、良きタイミングで的確に伝える。それまで「まったく余裕が無かった」藤井の中で徐々に変化が顕れ始めた。

練習量も生徒のコンディションを見ながら軽減し、「ケガをさせないこと」を最優先に少しずつ、小刻みに階段を上ってきた。だからこそ、「階段を下りることがあってはならないんです」と語気を強めた。入学から“3年計画”で育てる藤井らしいセリフだ。

「性格」こそが良いランナーの条件

いつも一番近くに近くにいて、生徒をしっかり見る。藤井が一番こだわってきた部分だ。就任時、事務職の話もあったが、普段の学校生活を見ていることは、駅伝部としても大きなアドバンテージになってきた。

今大会で最初と最後、1区と7区を担った2年生コンビの甲斐と曳田は、いわゆる無名から、著しい成長を遂げてきた。中学時代はサッカー部で脚を買われて駅伝大会にも出ていた甲斐を見初めた藤井の慧眼は、リーダーとしての資質、キャプテンシーさえも見抜いていた。

藤井は、よく生徒に諭すそうだ。

「どんなに良い靴履いても、どれだけ身体鍛えて筋肉つけても、最後に自分の身体を動かすのは自分の心だから」と。

「県内が9割」という地元出身選手で構成される宮崎日大駅伝部。

「県内が9割」という地元出身選手で構成される宮崎日大駅伝部。来季は県内V3を目指す

粘り強く、根競べでもメゲない強さを持った気質、性格こそが、最も重要なファクターだと、自らもエリートで国内トップレベルで競ってきたからこそ、言い切れる自信がある。それでも、いくら良い性格の選手を獲っても最初の7年間は勝てなかった。

厳しくし過ぎてもいけない、優しすぎてもダメ、いろんなことをいろんな角度からやってみた。正直、もう辞めたい、と思ったことは数えきれない、と藤井は言う。「でも…」。「純粋に一生懸命やってくれるこの子たちを見捨てて、『ごめん、俺辞めるわ』とは言えない(笑)。信じてついてきてくれている、そういう子がそばにいると辞められないですよ(笑)」。単なる冗談ではない苦労を見せずに、カラッと笑い飛ばす強さは、やはりトップランナーの資質なのだろう。

最後に、次なる夢は、と聞くと、藤井の表情から笑いが消えた。

「勝ち続けること。特に来シーズン」

駅伝大国・小林高校も復活を期して挑んでくる2020年秋。世間が五輪フィーバーに沸く夏を乗り越え、再び、駅伝シーズンが到来する。

宮崎の秋は、やっぱり熱い。