3人のメダリストが振り返る
東京パラリンピックに至る道

米岡聡選手(2008年文理学部心理学科卒)、富田宇宙選手(2012年文理学部情報システム解析学科卒)、木村敬一選手(2015年大学院文学研究科教育学専攻博士前期課程修了)

卒業生
2021年10月14日

東京パラリンピックでは、本学文理学部卒業生から4人のメダリストが誕生した。
4回目のパラリンピック出場となった競泳の木村敬一選手は、100mバタフライ(S11)で念願の金メダル、100m平泳ぎ(SB11)では銀メダルを獲得した。
同じく競泳の富田宇宙選手は初めてのパラリンピックだったが、100mバタフライ(S11)で木村選手に次いで銀、400m自由形(S11)でも銀、200m個人メドレー(SM11)では銅と、3個のメダルを獲得した。
トライアスロン(PTVI1)の米岡聡選手は、やはり初出場ながら銅メダルを獲得した。
ゴールボールでは天摩由貴選手がキャプテンを務め、銅メダル獲得に貢献した。
文理学部にメダル獲得の報告に訪れた米岡選手、富田選手、木村選手の3人に、大学時代を含め今回のパラリンピックでの快挙に至るまでの道のりを聞いた。

米岡聡選手
在学中に走り始めて、27歳でトライアスロンに挑戦

トライアスロン(PTVI1) 米岡聡選手

トライアスロン(PTVI1) 米岡聡選手

米岡選手は神奈川県生まれ。10歳で網膜剥離を発症し、筑波大学附属視覚支援学校から本学文理学部心理学科に進学する。視力を落としたくなければ運動はしない方がいいと医者に言われ避けていたが、在学中の20歳の時、新宿駅でたまたま介助してくれた女性が障害者マラソンの伴走者で、話をするうちに「あなたのような若い人は何か運動をしなくちゃダメ!」と言われ、その人が主催する練習会に参加するようになった。

「将来は心理カウンセラーのような仕事をしたいと思って、心理学科を選択して入学しました。20歳で走り始めてからも、大学生のうちは週2回走るぐらいのレベルだったので、本当に趣味というか、レクリエーションの一環でやってたという感じです。学生時代は仲間と楽しく、大学生らしいイベントをいろいろ楽しんでいたなと思います」

2008年に卒業した米岡選手は、趣味の一環としてマラソンを続けていたが、大会で入賞したり練習会にも誘われるうちに、競技として取り組むことを周囲から勧められるようになった。走り始めて5年、25歳の時に近所にトレーニングジムができ、一緒に走ってくれそうな伴走者との出会いもあって、挑戦してみることを決意。それからは生活ががらりと変わって、走る回数はそれまでの週に2、3回から、最低でも週5回に増えた。2012年、27歳で目標としていたマラソンでの3時間切りを果たし、それをきっかけにトライアスロンにチャレンジする。それからは二つの競技で好成績を収め、3年後の2015年にパラアスリートとして三井住友海上火災保険(株)に入社した。

「マラソンで目標としていたタイムを2012年にクリアして、次はどんなことをやろうかなと思った時に、パラでもトライアスロンがあるという情報をいただいて、マラソンの伴走者でトライアスロンもされている方に、『トライアスロンにも興味があるんです』と話したら、翌週には用具を揃えてくださったんです。(マラソンもトライアスロンも)やればやるだけしっかり記録は伸びてきていたので、ちゃんと努力をすれば成果が出るということは感じていました。パラリンピックを意識するようになったのも、マラソンで目標をクリアした2012年ぐらいからです。トライアスロンにしっかり軸足を移して取り組むようになったのは2018年なのですが、そのタイミングからずっとパラリンピックのメダルを意識してやっていました。(メダルを取れた要因は)しっかりと準備をして臨めたことでしょうか。準備をして、本番もしっかりその想定通りにレースを運べたこと。自分もそうですけど、伴走者とのコンビネーションの部分もすごく大きかったかなと思います。(伴走者が)ずっとトップでやってきた選手(椿浩平選手)だったので、練習の仕方、取り組む姿勢、レースの状況判断といった部分でいっぱい引き出しを持っていて、すごく頼りになり、心強い味方だったなと思います」

富田宇宙選手
在学中は競技ダンスに没頭し、主将を務めた

競泳 富田宇宙選手

競泳 富田宇宙選手

富田選手は熊本県生まれ。3歳から水泳を始め、県高校総体6位、九州大会出場などの実績を残している。高校2年から目が悪くなり始めるが、スクリーンリーダーを使ってパソコンを操作できることを知り、システムエンジニアを目指して文理学部情報システム解析学科(現・情報科学科)に入学。在学中は水泳からは離れており、競技ダンス部に所属し主将を務めた。パラ水泳に取り組むようになったのは卒業して社会人になった頃だった。

「入学した時は最初に演劇サークルに入部してお芝居をしていたのですが、それと並行して漫画研究会でイラストを描いたりオタクな活動もしていました。最後にダンス部に入って、最終的には4年間続けました。僕が入った頃ダンス部はまだサークルですごく弱く、関東で33校中30位だったんです。それをサークルから部に変えて僕が主将になり、たくさんの仲間に支えてもらって、卒業する年には10位まで上がってはじめて団体で全国大会に行けました。それはもう本当にうれしかったです。4年間はダンスがすべてだったと思います。僕は入学する時はまだ障害者手帳を持っていませんでした。入学してから手帳を申請、取得したので、全然ご理解いただけなくて配慮も受けづらかったです。勉強しづらいのに加えて自分も勉強しなかったので、進級がすごく苦しかったですね。また、視覚障害の訓練施設にも通っていて、とてつもなく忙しかったです」

2012年に卒業後、キャノンソフトウェア(株)にシステムエンジニアとして入社。それと前後して知人の紹介で障害者水泳クラブに入会し、水泳を再開した。2015年にパラアスリートとして競技に専念するためEYアドバイザリー株式会社(現在はEYJapan)に転職、日本選手権において2種目でアジア記録を出すなどの活躍を果たす。

しかし翌年のリオデジャネイロパラリンピック代表選考戦では、派遣標準記録を突破できなかった。2017年には日本体育大大学院博士前期課程に入学、同年に障害のクラスが変更となり、一転して世界トップクラスとなる。2018年のパンパシフィックパラ水泳選手権大会で3種目優勝、翌年の世界パラ水泳選手権大会では2種目で準優勝などの結果を残していた。その間ブラインドダンスの大会にも出場している。

「(水泳を再開したのは)6年ぶりぐらいでした。しんどかったです。大学時代にしていたダンスはシルエットが非常に重要なので、肩や背中の筋肉が余計だったんです。それを必死に落として体重も今より10kgぐらい軽かった。そこから水泳を始めたので最初は全然泳げませんでした。ブラインドダンスの大会に出場した頃は水泳が忙しくてダンスの練習はやっていませんでした。頼まれたら出るという感じで、普段練習していたわけではないです。2013年に東京パラリンピックの招致が決定して、そこで(パラリンピックを)少し意識するようになりましたけれど、真剣に目指そうと思ったのは、2015年にシステムエンジニアをやめて、パラアスリートとして就職した時からですね。今大会はすべての種目で自己ベストを出して、メダルを獲得するということを目標に臨みました。1年前の2020年までは、パラリンピックの機運醸成がまだまだ足りていないなと僕は感じていました。延期になって皆さんがさらに大変な状況の中で過ごしている中で、1年延びたことに負けずにチャレンジするパラアスリートの姿を、皆さんにお伝えすることができたと思います。延期になった1年は、パラリンピックの機運醸成にさらに有効に使える1年だととらえて努力してきました」

木村敬一選手
4度目のパラリンピック出場で念願の金メダル

競泳 木村敬一選手

木村選手は滋賀県出身。先天性疾患による網膜剥離で2歳の時に全盲になり、母の勧めで10歳の時に水泳を始める。小学校卒業と同時に上京し筑波大学附属視覚特別支援学校に入学、同校水泳部で頭角を現し高等部在学中に北京パラリンピックに出場した。

「日大に進んだのは、もともと教員志望だったので教育学科を受験して受け入れていただいたという経緯です。水泳も続けたかったのでいろいろご相談させていただいて、野口智博先生(体育学科教授)にお話ししたら、競技部の水泳部で練習するのは難しいけれど、ということで文理学部の水泳サークルをご紹介いただき、入会して練習させてもらっていました。僕はずっと特別支援学校で育ってきたので、健常者の人たちと一緒に何かをしたという経験がなく、水泳も一緒に練習するのは初めてだったのですが、4年生の時にロンドンのパラリンピックがあり、同級生、先輩、後輩の有志が自分たちでアルバイト代を貯めてロンドンまで応援に来てくれました。水泳サークルの仲間たちとの思い出が一番多い、というか、ほとんどですね」

2012年にロンドンパラリンピックに出場した木村選手は、銀メダル1個、銅メダル1個を獲得。翌年大学院に進んでからは野口教授の指導をマンツーマンで受けるようになる。この2013年からはパラアスリートとして東京ガス(株)に所属。2015年に修士課程を終え、翌年のリオデジャネイロパラリンピックでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得した。目標とする金メダルには一歩及ばず、さらなるレベルアップを目指して2018年には単身アメリカに渡りトレーニングを積んできた。

「金メダルを取りたいと思ったのはロンドンのパラリンピックで初めてメダルを取った後からでしたが、その後のリオデジャネイロパラリンピックで、充分金メダルを取るための準備は積んできていたのですが、叶わなかった。そこから延期もあってさらに5年、金メダルを取りたいと思ってから9年かかったなと感じています。アメリカに行って、言葉もしゃべれなかったですし、思い通りに行かないことが大半の中で生活したことで、精神的な強さを得ることができたのかなと思っています。リオのパラリンピックを迎えるまでにもトレーニングは沢山していましたし、戦う体は充分にでき上がっていたと思いますが、それに上乗せする形で心が強くなったことで、今回は金メダルまで届いたのかなと思います」

<プロフィール>

米岡聡(よねおか・さとる)
1985年9月6日生まれ。神奈川県愛甲郡清川村出身。10歳で網膜剥離を発症する。筑波大学附属視覚特別支援学校を卒業後、本学文理学部心理学科に入学、在学中に知り合った伴走者の勧めで練習会に参加するようになる。25歳から本格的に競技に取り組み、2012年に3時間を切ったのをきっかけにトライアスロンにも挑戦。2015年に世界トライアスロンシリーズ横浜大会で4位となり、以後世界レベルの大会で上位入賞を重ねる。トライアスロンと並行してマラソンも続けてきており、1500m、5000mのレースにも出場している。
パラリンピックは今回が初出場、トライアスロンで銅メダルに輝く。大会直前の世界ランキングは9位だった。三井住友海上火災保険(株)所属。


富田宇宙(とみた・うちゅう)
1989年2月28日生まれ。熊本県熊本市出身。3歳から水泳を始め、済々黌高時代には県高校総体6位、九州大会出場などの記録を残す。高校2年の時に網膜色素変性症を発症し、徐々に視力が低下。システムエンジニアになることを目標に、本学文理学部情報システム解析学科(現・情報科学科)に進学した。卒業後キヤノンソフトウェア(株)に入社、同時期に障害者水泳クラブ「東京ラッコ」に入会。2015年にパラスポーツに専念するためEYアドバイザリー(株)に入社、2種目でアジア新記録を作るなどS13クラスのスイマーとして好成績を重ねる。2016年のリオデジャネイロパラリンピックは派遣標準記録に満たず出場を逃すが、翌年に障害のクラスが変更され、S11クラスでは世界トップクラスとなる。
東京パラリンピックでは400m自由形、100mバタフライで銀メダル、200m個人メドレーで銅メダルを獲得した。EYJapan(株)所属。


木村敬一(きむら・けいいち)
1990年9月11日生まれ。滋賀県栗東市出身。先天性疾患による網膜剥離で2歳の時に全盲になり、母の勧めで10歳の時に水泳を始める。小学校卒業と同時に上京し筑波大学附属視覚特別支援学校に入学、高等部在学中に北京パラリンピックに出場する。本学文理学部教育学科に進学し健常者の水泳サークルに所属。在学中の2012年に行なわれたロンドンパラリンピックでは旗手を務め、銀メダル1個と銅メダル1個を獲得した。大学院文学研究科教育学専攻博士課程に進学し、野口智博コーチにマンツーマンで指導を受ける。2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得。その後単身アメリカに渡りトレーニングを続ける。
東京パラリンピックでは100mバタフライで金メダル、100m平泳ぎでは銀メダルを獲得した。東京ガス(株)所属。