我、プロとして

Vol.3 和田泰治 氏【前編】
ドーバー洋酒貿易株式会社/軽井沢ブルワリー株式会社 代表取締役会長(1961年商学部商業学科卒)

卒業生
2020年12月11日

まさか自分が母校で講演するとはね(笑)。
“異端児”ですからね、僕は(笑)

王道のクラフト、「THE軽井沢ビール」――。世界的日本画家・千住博画伯の作品を缶のパッケージにした、その斬新で洗練されたブランドイメージと、さっぱりとしたのどごしと爽やかな香りは、高原の軽井沢ならではの涼やかさをたたえた、優雅で心地よい味を漂わせる。人が感じる“心地よさ”を追求し、サラリーマン時代には、洋菓子コンクールに出品する職人たちの命を懸けた世界に圧倒され、「この職人たちと付き合っていこう」そう決心して、海外から製菓向きの洋酒を輸入し、後に国内でこだわりの自社製品も造りはじめた。そこから、クラフトビール造りに辿り着くまでに要した年月は、実に44年。その間に、ドーバー洋酒貿易(株)と軽井沢ブルワリー(株)を、一代で築き上げた実業家・和田泰治さん。本人曰く“異端児”という、その半生に迫ってみたい。

終戦からの新たな出発

客商売のコツは「心地良い話をすること。ちょっとした思いやり」と話す和田さん

客商売のコツは「心地良い話をすること。ちょっとした思いやり」

1945年8月15日。

当時、小学校1年生だった和田さんは、生まれ育った群馬県高崎市から離れた郊外で、終戦を告げる玉音放送を聞いた。

知る人ぞ知る、陸軍歩兵第15連隊の所在地であった軍都・高崎は、米軍から狙われ、空襲対策で市民は皆、郊外に疎開していた。

「親父は戦後、それまでやってきた事業はすべてゼロになりました。昭和20年に祖父が他界し、兄は19歳で戦死し、息子は小学生だった僕だけになりました」

事業家として飛ぶ鳥を落とす勢いだった父親は、戦前、陸軍や外国を相手に、満州にまで足を伸ばして手広く拡げていた。

「一度、満州に連れて行ってもらったことがあるんですよ。それも飛行機で行った」

幼少期に体験した異国情緒に心は躍った。

「明治生まれで、大正、昭和と国を越えたスケールで仕事をする親父が、羨ましかったですね」

しかし、一変、敗戦でゼロからのスタート。

それでも、家族を食べさせていかないといけない。

「それからは、家で運動具店、靴屋、福神漬け屋もやっていました」

商人はいつの時代も逞しい。

和田さんは、学校から帰ると、父に言われて店番をするのが日課だったという。

「学校に行くとね、市内から来たっていうので標準語使っただけで、随分といじめられましたよ。でも、家に帰ると店番でしょ。店番にきたら本領発揮(笑)。楽しい。飯なんかロクすっぽ食べている暇が無いような少年時代でしたけど、そこで楽しみながら、知らず知らずのうちに、商売のコツを覚えたんでしょうね。自分でもよく分からないけど(笑)」

“門前の小僧習わぬ経を読む”

“門前の小僧習わぬ経を読む”とはよく言ったもの。店番を任されると、そのうちどんな客が商品を買っていくかが、だんだん分かるようになってきた。毎日やっていると、店に入ってきた瞬間の雰囲気で、その直感が当たるようになった。

「こればっかりは、教えようがない(笑)」

商売の面白さに目覚めた和田さんは、地元の中学を経て、高校は商業高校を選んだ。

「だから、大学に入るなんて考えてもいなかった。ところが、ね」

和田さんにとって、人生最初の転機となったのは、高校から始めた部活動の「剣道」だった。

インターハイ(全国高等学校総合体育大会)がまだない時代、会津若松で行われた前身の全国大会で、見事に個人戦で優勝を果たした。

その試合に新人勧誘で来ていた、ある大学剣道部から声が掛かった。

「それはもう嬉しくてね。試験ナシで大学に入れるって。でも、親父は慎重でね。先方から提示のあった学部がことごとく気に入らなくて。『経営学部はどうか?』と言われた時には『経営は私が教えます』ってね(笑)。もうあのときは親父の口を塞ぎたかった(笑)」

決定打となったのは、「もし息子さんが剣道を辞めたら、大学も辞めてもらうことになる」という一言だった。

「親父もショックだったんでしょうね。どうも話が違うな、と。結局、それで断った(笑)。でも、僕はやっぱり大学に行きたいと思ってね。一般受験で入れないと思ったけど、日大を受けた」

結果は見事合格。入ったのはやはり商学部だった。

時は1958年(昭和33年)。東京では、“シンボル”東京タワーが竣工し、プロ野球に長嶋茂雄がデビューしたその年、高度成長期の真っ只中に、和田さんは上京した。

“とんち”で回避した入社試験

昨年11月に本学商学部で開催された「ホームカミングデー講演会」のチラシ

昨年11月に本学商学部で開催された「ホームカミングデー講演会」のチラシ

それから61年後の昨年、学び舎だった商学部に呼ばれて講演した。

「まさか自分が母校で講演するとはね(笑)。思ってもみなかった。異端児ですからね、僕は(笑)」

大学時代は、剣道部には入らなかったが、その“剣道”で下宿代と飯代を浮かせた。

「杉並にある剣道道場で昼間、子供たちに剣道を教えることを条件に、仕舞い湯付きで居候させてもらいましてね。下宿代タダ、飯代もタダ(笑)で。有り難かったですよ、本当に」

大学卒業後は、東証二部上場の酒造メーカーに就職した。

どうしても入りたかった会社だったが、入社前の社長面接で危うい場面もあった。

「面接が終わって部屋を出ようと思ったら、『君、身長どれくらいあるの?』と聞かれて『160cmちょっとです』って言ったら『君ね、週刊新潮のコラム、読まなかったの? ウチは170cm以上でないと入れないって』。当時、その会社のことが書いてある記事を僕も読んでたんですが、すっかり忘れてましてね(笑)」

でも「このままじゃ帰れない!」と思った和田さん。思わず言葉がついて出た。

「すみません! でも、お酒もミニチュア瓶がありますよね? それを売らせて下さい! バッチリ売ってきますから!」

とっさに返したこの反応に、面接会場はどっと沸いた。

「あのときの社長の『面白いこと言うね、君は』の一言で、『これ通ったかな?』と思ってたら、案の定、採用通知が来ました(笑)」

<プロフィール>
和田泰冶(わだ・やすはる)

1938年5月19日生まれ。1961年商学部商業学科卒。群馬県高崎市出身。
小学校1年生で終戦を迎え、父親の家業を手伝うことで商人としての才覚を養う。高校は県立高崎商業に進学。剣道を始め、全国大会個人戦で優勝。一般入試で本学商学部に入学し、卒業後の1961年、東証二部上場のモロゾフ酒造(株)に入社。突然の会社倒産により独立。
1969年和田商事(株)(のちのドーバー洋酒貿易(株))を設立。製菓用洋酒という新たな市場をつくる。2011年にはクラフトビール市場に参入し、2013年「THE軽井沢ビール」販売開始。現在では、製菓用洋酒500種類以上、クラフトビール常時10種類以上を扱う。