Vol.6 岩瀬浩介 氏【前編】ブラウブリッツ秋田代表取締役社長
(2005年文理学部社会学科卒)
ソユースタジアムのピッチにて
サッカー不毛の地と呼ばれる秋田県で、今注目されているサッカークラブがある。岩瀬浩介氏が代表取締役社長を務める、ブラウブリッツ秋田だ。岩瀬氏は前身のTDKサッカー部に選手として在籍し、その後クラブ化に向けたスタッフを兼任。引退後にフロント入りし、危機的な経営難であったクラブの社長に2012年に就任する。秋田で奮闘する岩瀬氏に、サッカーへの情熱、青春を捧げた大学時代などについて語ってもらった。
TDK時代の魂を受け継ぐエンブレムとともに
2020年シーズン、28試合連続無敗を記録するなど圧倒的な強さを誇り、JリーグDivision3史上最速優勝を果たしたブラウブリッツ秋田。天皇杯では準決勝に進出し、J1王者・川崎フロンターレを相手に粘りのサッカーを展開させたことは記憶に新しい。
J2に初昇格を果たした今シーズンは、これまで(2021年4月30日現在)4勝3敗3分、8位に位置している。初昇格のチームとしてはまずまずの結果を残していると言えるだろう。
それでも岩瀬氏に慢心はない。
「序盤の結果によって、選手はJ2の舞台でも自信を持ってプレーをすることができるようになりましたし、不安を抱いていたサポーターにも安心していただけたと思います。ただ42試合中の10試合が終わっただけですし、プロの世界は結果が全てです。今後も気を緩めずに自分たちのサッカーを続け、J2で残留し、定着するという目標を果たしたいです」
昨シーズンの輝かしい結果を踏まえると、外野で見ている身としてはJ1昇格を期待してしまうが、岩瀬氏はしっかりと自らの足元を見つめている。
今シーズン、ブラウブリッツ秋田の年間予算は7.5億円。これはJ2に在籍する22チームの中で、下から数えた方が早い金額だ。まずはクラブの規模を大きくし、J2の平均である14億円に近づけるというのが、ブラウブリッツ秋田の経営プランになる。
もちろんJ1昇格は最高の結果だが、選手を経験している岩瀬氏は、その地へ到達することが、いかに困難であるかを熟知している。
「事業規模を拡大するためのウルトラCというカードはありません。J2に定着すればクラブを大きくすることができますし、我々は一歩ずつ前に進むと同時に一段ずつ上へ登っていきたいと考えています」
岩瀬氏が考えるチーム作りには、ロールモデルがある。それはJリーグで数々の栄光を手にしてきた鹿島アントラーズだ。
茨城県出身の岩瀬氏は子どもの頃から鹿島アントラーズとその街を見続けてきたのだ。
幼少期について語る岩瀬氏
サッカーを始めたのは小学校2年生のことだ。隣に住んでいたお父さんが少年サッカーのコーチをしており、誘われたのがきっかけだ。
「うちの両親は私が物心つく前に離婚しているんです。だから1人で遊ぶ私を見て、不憫に思ったんでしょう。隣のお父さんがよく遊んでくれました。その延長線上で少年サッカーに誘われました。こうしてサッカーの世界で働けているのも隣のお父さんがいなければ今の私はないと思います」
岩瀬氏本人は幼少期の両親の離婚をポジティブに捉えているが、2人の男の子を抱える母子家庭は大変な状況だった。父の記憶がある兄は、母と衝突を繰り返し、家庭内ではケンカが絶えなかったそうだ。
それを救ってくれたのがサッカーだった。
「自転車で40分ほどかけてアントラーズの練習を見学し、ジーコに憧れてJリーガーになるという夢を持ちました。サッカーをしているときは家のことも忘れられましたし、練習を終えて帰るときには、『今日もケンカを止めなくては』と使命感に駆られていました。幼いながらにそう思えたのは間違いなくサッカーがあったからで、スポーツの力は本当に凄いなと思います。また兄の存在も私にとっては非常に重要で、悪いことをすれば本気で叱ってくれるなど、いつでも私の父親代わりをしてくれました」
サッカーに魅せられた少年は着実に実力を伸ばし、鹿島高校へ進学する。当時の鹿島高校は全国高校サッカー選手権にも出場し始めていた。
1年生でレギュラーの座を掴んだ岩瀬氏は、2・3年時には全国高校サッカー選手権に出場するなど活躍。しかし、Jリーグのクラブからスカウトされることはなかった。
「うちにはお金がなかったので、大学進学は考えておらず、高卒でJリーガーになるというのが私の目標だったので、高校卒業後は就職をしました」
就職先は地元の大手企業だった。給料も高く、大きな不満はなかったが、一生をここで過ごすことを想像したときに、言いようのない不安が岩瀬氏を襲った。
サッカーに対する未練も残っていたため、その時点で初めて大学進学を意識する。そして高校時代の監督に相談したところ、当時興味を持っていた本学サッカー部が岩瀬氏の勧誘に動いたのだった。
岩瀬氏は推薦入試を経て、文理学部社会学科に入学する。周囲の人間からは大学へ行くことを疑問視されたが、再びサッカーをできることが何よりうれしかった。
「学部や単位が何かもわかっていませんでしたし、お金がいくらかかるかもわかっていませんでした。1年で100万円ぐらい貯めていたので何とかなると思っていたのですが、入学金を払ったらほとんどなくなってしまって…。ですから1年生のときには2年生から特待生になるために、レギュラーになることが目標でした」
大学1年を思い返すと『必死』という言葉がぴったりと当てはまる。それはサッカーだけではない。恋愛、遊び、高校時代に苦手だった勉強にも全力で取り組んだ。
その努力は実を結び、大学2年以降は特待生となることができた。4年生になるとサッカー部では主将を務め、関東一部昇格に貢献した。
「大学の4年間は社会に出るための猶予期間だと思うんです。そこでさまざまなことに全力で取り組み、たくましく成長することができました。そしてサッカー部で共に汗を流した友人、先輩、後輩は私の財産になりました」
今年からブラウブリッツ秋田でコーチを務める臼井弘貴氏(2003年文理学部卒、松本山雅U-18監督など)は大学時代の先輩だ。フットサル、バサジィ大分に所属する後輩の荒牧太郎選手(2007年文理学部卒)とは、いつか一緒に秋田で仕事をしたいと考えている。サッカー部の戦友に今なお絶大な信頼を寄せている証だろう。
<プロフィール>
岩瀬浩介(いわせ・こうすけ)
1981年4月8日生まれ。2005年文理学部社会学科卒。茨城県出身。
小学校2年生でサッカーを始める。鹿島アントラーズに所属していたサッカーの神様・ジーコに憧れ、Jリーガーになることを夢見る。茨城県立鹿島高等学校に進学し、1年生からレギュラーの座を掴み、高校2、3年では全国高校サッカー選手権に出場。1年のブランクを経て本学文理学部に進み、4年時にはキャプテンとしてサッカー部を牽引した。
卒業後は06年に佐川急便東京からブラウブリッツ秋田の前身、TDKサッカー部へ移籍。守備陣の中心選手としてJFL昇格に貢献するだけでなく、09年からはチームスタッフとして主に広報を担当。10年に現役を退き、フロント入り。12年に代表取締役社長へ就任した。