
現在、急ピッチで建設が進む大阪・関西万博。その中核となるパビリオンで、50年後、1000年後のロボットデザインを担当しているのが松井龍哉氏(藝術学部客員教授)だ。松井氏は日本を代表するロボットデザイナーとして活躍する一方、現代美術家として昨年、世界遺産 東大寺に作品を奉納するなど、多彩な創作活動も行っている。今回はデザインと現代美術の領域を行き来する松井氏の、作品に込めた思いを聞いた。
地球温暖化抑止への思いを込めた「手のひらの太陽」
昨年10月、東大寺に直径2メートルの球形の美術作品が奉納された。
『鎮める火群(ほむら)』と題されたこのオブジェは、理事として参加する一般社団法人奉納プロジェクトの事業の一つとして松井氏がコンセプトとデザインを担当したもの。令和3年、世界遺産 平等院に奉納した『鳳凰(ほうおう)の卵』に続き2作目となる。制作にあたって松井氏は二つのことを意識したと言う。
松井「東大寺奉納プロジェクトは、長引く地域紛争や地球温暖化など、さまざまな不安をもつ現代人の心を鎮めるために始まったものです。東大寺に奉納した作品は太陽を象徴し、地球温暖化の抑止や恒久の平和への願いを込めてつくりました。一つ目は世界中の小学生でもわかる、シンプルで明快なメッセージを伝えること。赤い太陽は昨年の猛暑を思い出させ、『手のひらの太陽』というサブタイトルを付け、大仏様の手の上に乗る姿を想像してつくったものです。直径2メートルも大仏様の手のひらに乗せた場合を想定して割り出した大きさです。二つ目は、最先端の技術を使って制作し、未来の人々に現代の技術水準を伝えることです」

デザイナー/アーティスト 松井 龍哉氏
世界最大の木造建築である東大寺にあやかって、本作品は北海道日高産の理想的な状態に乾燥させた緋カツラ材でつくられた。木材であるがゆえに難度は格段に高くなるが、それを解決する技術の証を未来に残しておこうというのだ。
松井「木を曲げて球形をつくると将来弾ける可能性もあるため、太い角材から円弧の形を切り出しました。内部の立体になったメビウスの輪はコンピューターで緻密に計算し、微妙な曲線の違いを表現するため細かく分割して削り出しています。もちろん手作業でできることではないので、ドイツ製の5軸の複合加工機を持つ東大阪の木工工房に依頼し、若い職人の方たちと試行錯誤を繰り返しながら組み上げました」
現在は大仏殿出口近くの回廊に展示され、今年9月末まで鑑賞できるという。日本人も海外からの観光客も、皆自分の手を伸ばし、手のひらに乗っているかのように写真を撮ってSNSに投稿している。松井氏が意図した通り、メッセージがネットに乗って世界中に広がっている。
松井「今回の奉納を通じて、日本から世界に向けて平和や環境に関わるメッセージを伝える意義を、強く感じました。また、表面的な美しさだけでなく、その基にある物語性を論理的に考え、ゼロからイチを創造することこそ美術家に最も大切なことだとも実感しています」
歴史を振り返り、1000年先を想像する
大阪・関西万博会場の中央にはシグネチャーパビリオンと名付けられた八つのパビリオンがあり、担当プロデューサーが異なる視点から「いのち」について展示を行う。その中でアンドロイド研究者として著名な石黒浩大阪大教授が担当する「いのちの未来」では、50年後と1000年後を想定し、人とアンドロイド、ロボットが共生する世界が展開される予定だ。
松井「1000年後と聞くと途方に暮れますが、私たちには1000年前の歴史があります。平安時代後半の頃の人々のことを考えると、競争心や嫉妬心があったり、組織の問題があったりと、現代とそれほど大きく違いません。変わっているのはやはり技術。今から少し進んだ人々が幸せに暮らせるために、ロボットはどうなっているのが理想的か。そう考えることでビジョンが見えてきました」

このパビリオンは主催者が提示するコンセプトゾーンの役割を果たす。そのため独創性よりも普遍性のあるデザインを目指した。
松井「ダイバーシティにも配慮して、こんな未来なら行ってみたいと思えるデザインを示しました。どんなものかは言えませんが、楽しみにしてください。石黒教授のもとで構想に1年をかけ、各種クリエイターと既に実設計に取り掛かっています」

松井氏と自身のアート作品。卵が連なる立体作品 ”Oeuf 45℃”
ロボットデザインとアートを両立させて活躍する松井氏。後編では今後の目標と才能を育んだ背景について、語ってもらった。
コンセプトを明確に発信し、共感できる仲間を集める
松井氏は現在二つの会社を経営している。平成13年に設立したフラワー・ロボティクス株式会社と26年に設立した松井デザインスタジオだ。ロボットデザインとアートワークという性質の異なる仕事を2社で振り分けている。
松井「フラワー・ロボティクス社は、プロジェクトごとに最適な人材を世界から集め、目的を達成してきました。会社を大きくするより柔軟なスタッフィングをして成果を上げるという考え方で、クリエイターにもチャンスは広がります。設立当初から多くのスタッフが活躍してくれましたが皆独立し、弊社以外でも専門性を発揮できるようになりました。有能なスタッフはリーダーが理想やコンセプトを明確に発信しなければ集まってきません。しかし、デザイナーの世界はシビアで、作品がすべて。作品に共感したという人が、一番力になってくれます」

デザイナー/アーティスト 松井 龍哉氏
競争の中で行うモノづくりは企業の利益と密接に絡んでくるため、必ずしも自分たちの意向が生かされるわけではない。他方、松井デザインスタジオは最初から松井氏個人でアートワーク系の仕事を扱い、ロボットの開発とは線を引いているという。
松井「アスリートと同様に、先端技術の開発も気力と体力の限界があります。何より若い感性が重要です。フラワー・ロボティクスを立ち上げた時は32歳でしたが、62歳までかなと最初から計画しました。現在55歳で新しいプロジェクトが進んでいますが62歳以降は美術家として作品制作に時間をかけたいと考えており、50歳を過ぎた頃から意識的にアートワークの仕事を増やしています。奉納プロジェクトもその一環ですし、現在使用しているオフィスビル内の絵画やオブジェはすべて私の作品です。ヨーロッパでは以前から私の作品は各地で巡回しており、少しずつ実績は上がっています」
好きを究めて個性をつくる
自らのキャリアデザインも想定し、セルフプロデュースさえ行ってしまう松井氏の才覚は、どこで目覚めたのだろうか。また、自ら道を拓いてきただけに、今の教育には思うところがあるという。
松井「発端は小学生の頃かもしれません。近所の画家のアトリエに通い一人の世界に浸り絵を描くことが好きでしたが、学芸会ではいつも皆の中心にいて、舞台のテーマを決めてシナリオを書き、衣装の生地を探しました。この頃から創造性のあることが最も面白いと思っていました。

将来はデザイナーになると決めた中学生の時に様々な美術大学を調べてみると日藝には美術学科の他に映画学科もあるというのに惹かれ鶴ヶ丘高校の美術科に入学し、美術好きの仲間と学んだからこそ、現在の自分がいます。鶴ヶ丘高校では、現役のデザイナーや美術家が講師をしており、本物を学ぶことができました。学校帰りは友人と渋谷に寄って、映画を観たりアート系の洋書の最新刊を見たり。修学旅行も普通科は沖縄でも我々は京都でしかも行動は自由と、まさに自主創造を地で行く3年間でした。その経験からも、中高生には個性を伸ばせと言うより、好きなことを見つけてそれを追求しちゃえばいい!という方が分かりやすい。私自身、高校生の頃はアンディ・ウォーホルに憧れ、日藝に進んでからは3年生の海外研修で初めて見たパリのインパクトが大きく、目標はパリで学ぶ事に移りました。ヨーロッパ留学を目指す過程でお世話になった丹下健三・都市・建築設計研究所で、都市計画や建築のコンセプトづくりを学んだことは、世界を見る目を変えてくれました。すべて好きなことを貫いた結果です。生徒各自が好きを見つけられる環境をつくることが、付属高や大学の役割だと思います」
ウォーホルの背中を追うことで時代を正確に捉えた新しい芸術表現の在り方を知り、丹下健三氏からネットワークと現実世界が融合する時代が来ると示唆されたことが、ロボット開発に注力するきっかけになったとも言う。最後に、後輩に向けてメッセージをもらった。
松井「何よりも先ず自分を持つこと、自分自身の”特別”を持つことです。「私の世界と世界の私」という言葉をよく使うのですが、若い時から本当に好きなことを継続して自分の世界が持てたら、世間は関係なくなります。そこで外の世界に出て、この世界で自分は何ができるのか、未来に何が求められているのかを見つけられれば、人生はより肯定的に生きられるのだと思います」
松井龍哉(まつい・たつや)
昭和44年東京都生まれ。日本大学鶴ヶ丘高等学校を経て平成3年藝術学部デザイン学科卒。
本学卒業後に丹下健三・都市・建築設計研究所を経て渡仏。帰国後に科学技術振興事業団ERATO北野共生システム研究員。平成13年にフラワー・ロボティクス社を設立。自社ロボットの研究開発からトータルデザインまで幅広く手掛けている。
ニューヨーク近代美術館、ベネチアビエンナーレ、ルーヴル美術館内パリ装飾美術館 ヴィトラデザインミュージアム等でオリジナルロボットの展示を実施。また近年は美術家として現代美術作品を制作/発表し収集されている。平成18年 個展:松井龍哉展(水戸芸術館) 23年 個展:花鳥間(POLA MUSEUM ANNEX)。令和4年より一般社団法人奉納プロジェクト理事。日本大学藝術学部客員教授。
著書「優しいロボット」大和書房 令和3年