野生動物を追いかけ対馬へ移住、行動が地域の人々を変えていく

一般社団法人daidai 代表 齊藤ももこ 氏

長崎県・対馬。羽田空港から福岡空港へ2時間、福岡空港から35分で対馬やまねこ空港に到着する。九州と朝鮮半島の中間に位置し、大陸からの文化や外交の拠点、経由地として栄えた。日本の島では佐渡島、奄美大島に次ぐ3番目の大きさの地。

空港から車で20分、島南部の厳原町が今回の舞台となる。背後には山の緑、眼前に広がる澄みきった青の海が織りなすツートンカラーが対馬の魅力で肝となる。この地の出身ではなく、あるきっかけを機に移住してきたのが今回お届けする齊藤氏。

なぜ、対馬に?という疑問と、何に取り組み何を目指しているのか。野生動物、就職をキーワードに齊藤氏に迫る。

対馬に出会ったきっかけ

福岡県出身の齊藤氏。父の仕事の関係で転勤族。中学校まで福岡、高校時代は広島で過ごした。福岡にいた当時「どうやって行くかも知らなかった」という対馬に初めて訪れたのは、大学2年生の時だった。

生物資源科学部獣医学科に進学した齊藤氏はもともと野生動物に興味があり、全国の野生動物の問題を扱う授業を受けていたら、対馬の固有種・ツシマヤマネコが取り上げられた。

「動物が好きで『獣医になればいいんじゃない』と言われ、日大の獣医学科に入りました。実際に獣医さんが何をするのかしっかり調べていたわけではなく、漠然と獣医として活動したいと思い入学して授業を受けてみると、骨の名前、血管の位置といった解剖学や病理学の授業が多く、『これが本当にやりたいことだったのかな』と思うようになっていました」

そんな折に取り上げられた対馬の野生動物。そして環境省のインターンシップが同地で行われることを知った。

こうして、島の大きさが南北82㎞、東西18km、北端から韓国まで直線距離で49.5km、山林が面積の89%を占め、対馬海流により恵まれた漁場の海に囲まれた対馬に初めて足を踏み入れることになる。

インターンシップから暇さえあれば対馬へ

昔から自然と触れ合うのが好きだった。 「動物園のふれあい広場は誰よりも積極的に触りにいっていました」 大学の進路選択も動物に関わりたい、という一心だった。 そして飛び込んだ対馬でのインターンシップ。当時は、環境省の施設の2階に宿泊棟があり、シャワーも台所もあり自炊して、2週間寝泊りをした(現在は不可)。獣医を目指す学生も動物資源を専攻する学生もいる共同生活。その後も時間を見つけては、毎年夏休み、冬休み、時には春休みも対馬に足を運んだ。  「周囲からインターンフリークだと言われるほど、いろんなところに行って勉強させてもらえるのが楽しくて。大学の勉強はもちろんですが現場に行かないと分からないことがたくさんあって、日ごろはアルバイトをして休みを使ってインターンに行って、その合間に対馬に来ていました」 実家に帰るより対馬へ行っていたという。

屈託のない笑顔が印象的な齊藤氏

対馬で出会った動物に対する「憎しみ」

対馬へのインターンシップを機に、行動派となった齊藤氏。 そこで出会ったのは、想像もしていなかった「人間の感情」だった。 地元の農家の方が「ヤマネコなんてどうでもいいんだ。猪、鹿の方が多いから憎くてしょうがない。人間が食べるはずの野菜を食べられる。それなのになんでヤマネコを守ることばかり気を遣って、自分たちの生活はどうなるんだ」と怒りが爆発する場面を目の当たりにした。 ショックだった。 「周りの動物好きな人たちも、守りたい、助けたい、という気持ちが強く、私自身も当時は救護や保全というキーワードで対馬に来ていました。減って困る動物もいれば、増えすぎて困る動物もいることを知りました。そこに人間の憎しみの感情がある。強烈に動物が嫌い、憎いという感情を持った人、むき出しの人に出会ったのが初めてだったのですごいショックを受けました。転機かもしれないです」 実際に起きている問題は、固有種の保護もさることながら、より実生活に影響を及ぼす獣害だった。なんと対馬では年間、シカ約8,200頭、イノシシ約5,400頭(2019年度)が有害だとして捕獲されている。自治体も捕獲に報奨金を出すなど取り組んでいるが、それでも農作物への被害は変わらない現状を知った。

捕獲された猪(写真提供:志鎌康平氏)

「同じ世界の中だけにいては気付けなかったこと、動物を好きではない人の方が多く成り立っている世の中で、『私は全然見えていなかった』と実感しました」 そこから齊藤氏の中で「どうやったら憎いという感情がなく、みんなが困らずに、動物が好きな人も嫌いな人も、関心がない人も、困らなくて生きていけるんだろう」という考えが芽生えた。 気が付けば大学6年生になっていた。周囲が動物病院などへの進路を決める一方、悩みに悩んでいた。研究の道を探し出したがそこに進むべきか、締切最終日まで迷っていた。 そこに届いた一通のメール。絶妙なタイミングの知らせが、現在まで9年の移住につながる。中編ではその過程を振り返る。

対馬の海の玄関口・厳原港。海の幸の宝庫だ

行動の先に訪れたタイミング、学びと思い

店舗兼オフィスの前で

動物を守りたい、助けたいという側面からだけではなく、減って困る動物もいれば増えすぎて困る動物もいる現実を知った齊藤氏。大学生活も最終年を迎え、周囲が進路を決める中での焦りや悩み。自分が進みたい方向とマッチする道が見つからず、悩んだ末に対馬行きを決めたのは行動の結果だった。対馬でのインターンシップをきっかけに全国を飛び回り、経験を重ねていくうちに、募る対馬への思い。その道のりをたどる。

自然保護の功罪。その狭間で得た学び

インターンシップで全国を動き回った。 その経験が対馬への思いを加速させた。 舞台は北の地、知床に移る。 知床半島が国立公園に指定され、町がつくった財団法人が半島の自然生態系を守り、人々への普及啓発をしている。そこにインターンシップで訪れた。 「観光客が何気なくあげたエサが原因でヒグマに襲われる、キツネに噛まれて病気になるという可能性があるので、動物にも人にもちゃんと教育をしようと活動されている人たちがいます」 到着した当日、実習先へ車で向かう最中に「中から見ていて」と受け入れ担当の人が車から降りた。 「草むらの中に黒い塊が動いていて、それはヒグマでした。エッと思ったら爆竹で追い払うところでした。国立公園に指定したことで、誰も何も手を加えられない。積み重ねてきた生活の中でヒグマの駆除を行っていたハンターが、許可がないとできなくなってしまい、ヒグマが増えて世界で一番のヒグマの過密地帯になってしまいました」

齊藤氏の後ろに見えるのはカラフルに染色した鹿、猪の皮革

功と罪、その狭間が現場では起こっていた。

その日見たヒグマは1週間後、人里に慣れてしまったために観光客もいる駐車場に入ってきた。そして、人間に危害を加える一線を越えたと判断され、駆除された。

「実習で牛の解剖もネズミの解剖もしていましたが、獣の臭いをしたさっきまで生きていただろう生き物に触れたことはありませんでした。運ばれてきたヒグマを見てショックでした」

そんな齊藤氏をよそに、スタッフの方は慣れた手つきでDNAを採取したり肝臓からサンプリングし、どういう遺伝的系統があるのか採材していた。

「『獣医なら腕を切り落として』と指示され、ナイフを渡されました。思いのほかスパンときれいに切れ、褒めてもらえた。その、自分の手首よりも大きいヒグマの手首はどうなるのかと聞きました。『爪がすごく伸びていて、ヒグマの対策をしている人は分かるけれど、市民や観光客は分からないからちゃんと見せて、触ってもらうことで危険性を伝える』のだと言われました」

そこから、捕らえた動物をいかにうまく使えるかに興味が湧き、利用の仕方を学ぶようになった。

循環という人間のエゴを次の世代の学びに

もう一つ経験がある。
「東京のあきる野市のボランティアで、子どもを山の中で遊ばせる企画があって、駆除された鹿の雄雌を持ってくるから、解体体験で子どもたちの勉強になることを教えてと言われました。『鹿は牛の仲間だから胃が四つあるよ。一つ目が一番大きくて微生物を飼ってタンパク源にしている。草を食べると胃袋がパンパンになる。もしそんな鹿が山にたくさんいて、みんなが草を食べるとどうなるかな』と問い掛けました」

解体した肉を使い、鹿肉バーガーを作った。
最初は解体の様子に目を背けていた子どもたちだったが、説明を聞くうちに引き込まれるように一生懸命さばき始める。自然の理を聞き、だからこそ食べていくことが大事であると実感したことで、動きが変わった。

「循環という人間のエゴを、使うという選択をすることで次の世代の学びにする。ただ駆除して埋めるよりはいいなと思い、対馬でも何かしたいと思った頃でした」

最後の日に届いた運命の一通

「すごいタイミングでした。ラッキーな」。その一報は大学6年生に届いた。 進路が定まらず、獣医師の国家試験もあり、周りが動物病院に就職を決めていた。環境省や研究に進んだ方がいいのか、いろいろなアイデアがある中で、研究者になって知識を地域にフィードバックできる人になりたいと思った。 しかし、「対馬」「鹿と猪」の研究をしている研究室が全国になく、唯一近い研究をしていた関東のある先生に相談したところ、「対馬で10年、20年は時間をかけないと論文は書けない」と言われた。願書締切の当日、書類も全て揃えた状態で悩んでいた。 そこに丁度、メーリングリストで「猪と鹿の担当を募集します」と流れてきた。 送り主は大学2年生で行った環境省のインターンの職員の方。任期後に対馬市役所に就職し、地域おこし協力隊の担当をしていた。 悩みながらも、揃えた願書を放り出し、踵を返して地域おこし協力隊に応募した。

資源活用もして被害対策もする地域おこし協力隊。任期3年の就職を決めた。

好きなことだから動く

「大学に入って周りや先輩にいろんな行動をしている人がいたので、動かなきゃダメだなと思いました。好きなことだからですが、勝手に動いていました。興味がないことはやってなかったです」 齊藤氏のいまを見ると頷ける。好きこそものの上手なれを体現している。 就職は、動物病院に勤めながら休日に野生動物に関する活動をするのが現実的だなと思っていた時期もあった。野生動物関係で出会った岐阜大学の同級生とSkypeで進路相談をしていた時のこと、ほかの同級生は動物病院の傾向を分析にインターンに行っている中、「ももこは行った?」と聞かれた。

情緒豊かな景色が楽しめる浅芽湾の夕陽

自分は1、2カ所しか行っていないと返すと「それ、好きじゃないんじゃない。それならしない方がいいよ」と言われた。確かにと納得した。

「自分が繰り返し行っていたのは、鳥か猪、鹿、対馬だと思い、私は対馬に行くのが一番幸せなんだ、と自分の行動の起源である対馬を就職なり進路に選ぶことにしました」

もやもやとした葛藤の先に気付いた思い。その思いが引き寄せたかのようなタイミング。行動が呼んだ対馬行きの知らせだったのかもしれない。

店舗のデザインはご主人が齊藤氏の要望を取り入れて造り上げた

行動が出会いを呼び、縁を引き寄せ対馬に就職することになった齊藤氏は、地域おこし協力隊の任期中も自ら行動を起こした。見て学び、血となり肉となった経験から2016年に一般社団法人daidaiを設立。そこで新たに直面した問題は必ずしも鹿、猪だけの問題ではなく、人も関係していた。後編ではdaidaiの事業と対馬のこれからについて聞いた。

多様性の尊重と選択。哲学を持つ

対馬で駆除した猪、鹿をさまざまに色付けた皮革にし、製品としている。「楽しい色をきっかけにでも『猪、鹿の製品を持ちたい』と思ってくれればいい」と齊藤氏は言う。その理由は、駆除に対する島の意識だった。

「印象がすごく悪い。『動物を殺めると呪われる』という言い伝えもあり、肩身が狭かった」

自身も周囲も島を思って取り組んでいても、理解が進まない壁に直面する。しかし、立ち止まっていては前に進まない。自分の中に確固たるものを持つことで、その壁を越えようと考えた。

「感謝なく肉を食べるのか、命の尊さを分かった上で、町のことを思い捕るのか、と考えたら後者を選ぶ。自分の中に哲学があればいいんじゃないか、と話していました。この島の中にもいろんな意見がある。物事の二面性、多様性をつくっていけるかを考えています」

島に来て9年、全てが変わったわけではないが、関わった人の中では対応が変わってきたと感じている。 「昨年、捕獲の最年少記録が更新されたんです。鉄砲の最年少記録は私の33歳、罠はスタッフの28歳でしたが、両方とも21歳に更新されました。それくらい若い人が興味を持ち始めて、周りも言わなくなったのかな、と思います」 害獣を憎いと言っている人に、獣肉をきれいにスライスして、デパートで売っているような状態にして食べてもらってみた。

ディスプレーされている鹿の角は知人のハンターからもらった

すると、あまりにもおいしくて「自分たちは魚しか手に入らないと思っていたけど、この漁村でもお肉が手に入るならと、捕り始めた方もいます。人って面白いなと思います。いかにスーパーで買うしか選択肢がなかったのかな、と思います」

見方を変えれば、アプローチを変えれば先入観は、興味へと変わる。そんな試行錯誤の日々を齊藤氏は送っている。

獣医資格の賜物を生かして

移住してきた頃、島内に猟友会の会長が運営している解体処理場はあったが、島の外へ出すためで、地域の人たちが食べるチャンスが少なかった。

「そもそも対馬じゃ売れないと思って島外に出していたそうです。でも地域の中で食べていくことをして、対馬の人が暮らしの中で使っていかないと、共存や継続にならない。そこで、市役所として食肉処理加工施設を造り、その立ち上げをさせていただいた。そのままで食べたいと思えなくても、ソーセージとか加工品だったら食べやすいかもと思ってくれると考えました」

これは行動とアイデアだけでできるものではない。獣医を目指して大学へ進み、悩みながらも進路を決め、獣医の資格を取り卒業したことの賜物だった。

「獣医の資格には食品衛生管理者も付いてきます。ありがたいことにそれが役に立って、対馬の中で唯一食肉製造ができる施設を造ることができました。施設を回すためにルール上、食品衛生管理者が必要なため、任期が終わった後、建物は市が管理し、衛生面の管理を私がするという契約を市役所と結びました」

しかし、大学で習ったのは動物の筋肉の繊維、部位に関するもので、精肉の方法を習ったわけではない。初めは手探りだった。

「分からないことが分からない、と分かるだけでも強みだなと思いました。積極的に聞きにいこうと、出張でいく先々に解体処理場がないか調べていました。食肉加工は生物資源科学部に加工センターがあり勉強に行かせていただいたこともありました」

市役所が勤務地だったこともあり、相手の受け入れはスムーズで、ガラスにへばりついて見学したという。

成人式の記念品になった皮革。対馬育ちの若者へ

最初は全て一人でこなしていた。要望があればレザークラフト講座を開き、皮革を通して普及啓発をやっていた。 その結果の一つが、成人式の記念品。対馬で捕った皮を使い、対馬育ちの成人にプレゼント。毎年300個を用意している。 製作に苦慮していた矢先に、講座に参加していた知り合いの友人がピカイチのうまさで、指示にも素直だった。 「作業には性格が出ます。せっかちな人、人の話を聞かない人。その中でセンスがいいので仲間にならないかと声を掛けました。お子さんが当時1歳で、内職だったらと言われたので『もろ内職なので!』と引き入れて、6年の付き合いです」

作業机の工具と部品。手作りで仕上げる

地道な作業、活動を経て、徐々に仲間を増やしている。

イノシシ・シカの革で作った印鑑ケース

本丸にたどり着くまでは対馬に

「ずっと対馬で、とも思っていなくて、主人が鹿児島に単身赴任中で、2地域居住生活。子どもの頃から場所に縛られる生活をしていなかったからか、ずっとここに住もうというのもないんです」

移住して9年が経つ。成果は上々に見えるが、自身ではまだ納得がいっていないという。

「鹿が減ったわけでも、猪がいなくなったわけでもない。皮や肉を介して、人の関係性はすごく変わったなと思いますけど、そこから先、鹿や猪が減り、または減っていくであろう体制づくりまで持っていかないと。いま外に出ていったら中途半端ですし、次のところでこれをやってきましたと言えない。本丸にたどり着くまで、これから5年から10年でそういった対馬の光景が見えれば、次どこ行ってもいいや、と思えるかもしれないし、対馬にいるかもしれない。まだ頑張らないと」

[daidaiの事業]
1. 被害対策のコーディネート(行政からの依頼)
・担当者が数年単位で変わる行政に、これが一番いいと思うとアドバイス
・集落を回り説明、柵の設置の指導
・捕獲や被害対策のモニタリング
2. 精肉
3. 皮革
4. 講演、授業(中学校の総合学習などでレザークラフトを教える)
5. 農業

今後について聞くと、新たな問題に直面しているという。それは、高齢化に伴う耕作放棄地だ。 「鹿を捕りにいくのに、どこに出現しているか夜に見に行きます。耕作放棄地が鹿のすみかになるというのは大学時代から勉強もしましたし、行政にもずっと言っていたはずなのに、ライトを当てると目が光るので数えると、ある耕作放棄地に160頭いました。2カ所で270頭。人が土地の活用を諦めて、スーパーで買う方が安いから野菜を買う。それは対馬産ではなく、北海道産や海外産だったりします」

齊藤氏おすすめの万関展望台からの夕陽

そこで、土地を守るために耕作放棄地で農業を始めることにした。偶然にも農業に興味があるスタッフがいて、病気のため耕作放棄した田んぼを譲り受け、野菜を作ることにした。

狙いは単に耕作放棄地を若手が担うだけではない。野菜は本来、固定種と呼ばれる種が取れる。
一方、スーパーで売られている野菜の多くはF1種といい、品質は揃うが種は取れない。土地によって進化はしていかないが安定して取れるのがメリットだ。

しかし、「雲仙にあるオーガニック直売所のタネトの活動からF1種と固定種の違いを意識するようになりました。自分たちで土地に合った野菜を作っていき、種を残すという生物の当たり前の営みから食べ物を作ってみたいと思ったんです。 」

大学で学んだのは動物についてだけではなく、動物が生活する環境や影響など、鷹の目のように広く動物を捉え、考えることだった。

自然の摂理、命の尊重と選択。共存といえば聞こえはいいが、善し悪しの多面性が必ずある。齊藤氏は人、動物その両方の見方から物事を考え、まず行動を起こして、その壁を越えていく。

齊藤ももこ(さいとう・ももこ)

福岡県北九州市出身、転勤族の家庭で高校時代は広島で過ごす。2013年生物資源科学部獣医学科卒。大学時代は、獣医臨床繁殖サークルと野生動物医学会日大支部に所属し、授業でインターンシップをきっかけに全国で野生動物の現状に触れる。2013年3月に卒業後、対馬の地域おこし協力隊で3年間勤務。2016年に一般社団法人daidaiを立ち上げ、対馬の獣害に取り組む。