「くだもの楽園」代表 生稲洋平 氏

「何がやりたいか」から「何ができるか」に発想を転換し、見つけた料理と就農の道

「東京生まれの川崎育ち。都会っ子気取りで、田舎なんて大嫌い。大学時代は『仕事をするなら都会でねーと』って思ってました(笑)」

そう話す生稲洋平氏が今いるのは、東京から300km離れた山形県河北町。四方を月山や朝日岳などの美しい山々に囲まれ、東に悠々たる最上川、南に清流・寒河江川が流れる自然豊かな町だ。ここで彼は農業を営み、数種類の果物を生産するほか、ブランド野菜「かほくイタリア野菜」の栽培・普及にも奔走。地域の農業活性の主力としても活躍する。彼はどのようにして、この場所にたどり着いたのか。その軌跡を追った。

 

バレーボール漬けの4年間

中学校の文集に「将来の夢はバレーボール選手」と書くほどバレーボールが大好きだった生稲氏。中学校は全国大会常連の強豪、川崎市立橘中学校バレーボール部に所属し、バレーボールに打ちこんだ。やりがいはあったが、練習は厳しく「高校はもう少し楽なところへ。それもせっかくなら東京の高校へ」と、東京農業大学第一高等学校バレーボール部へ進む。そこは「弱くもないが強いというほどでもなく」物足りなさを感じ、「また本気でやってみたい」と思うようになる。

生稲氏が経営する農園「くだもの楽園」内ゲストハウスにてインタビュー

とはいえ、大学に行ってもバレーを続けたい部員は彼1人。顧問がプッシュしてくれるわけでもなく、大学バレーボール部とのパイプは全くなかった。そんな生稲氏に手を差し伸べてくれたのが、練習試合等でお世話になった日本大学付属校のバレー部顧問。「日本大学のセレクションを受けてみたら」と薦めてくれた。受けてみると、見事合格。ポジションはセッターだった。

が、喜んだのは束の間だった。

「僕、何も調べないで日大に行ったんです。調べてたら行かなかった(笑)。そのくらい当時のバレー部は厳しかったです」

生稲氏を待ち受けていたのは、中学時代を上回るハードな部活生活だった。

「もう、毎日ぼろぼろ(笑)。でもおかげで、社会に出てつらい目に遭っても、あの4年間を乗り越えたんだから大丈夫、怖いものはないって思える。ちょっとやそっとじゃへこたれない忍耐力が付いたのは、大学バレー部時代のおかげです」

バレーボール部を引退。「何をやったらいいか分からない…」

こうしてバレーボール漬けの日々を送るも、プロになることは諦めて大学4年で引退。

「中学からバレーボール街道を進んできて、バレーボールをするためだけに日大へ行き、他に目指していたものは何もなかった。バレーボールを辞めたら、何をしたらいいのか全然分かんなくなっちゃって」

4年生になって就職活動の時期になっても、バレーボールしかしてこなかった人間には、就職活動のやり方も分からない。受けたい企業も思い浮かばなかった。

「周りには100社受けたとかいう人もいて、100社も興味ある会社があるのか!と。全然付いていけなかったですね。何やったらいいのか、ほんっとに分からなかった」

とりあえず体育会系学生を対象とした就職セミナーに足を運んでみると、そこで出会った通信系の企業からオフィス機材の営業として内定をもらうことができた。ところが後になって、その企業の社風が体育会系であることが判明。「あの世界はもう部活動で十分」と、内定を白紙にしてもらう。

「今思えば、そのくらいで諦めるなんて若かったなと。入社していたら、そこで何かできたかもしれないのに」

そこで生稲氏はふと気付く。バレー部ではアルバイト禁止だったため、これまで仕事をしたことが一度もなかったのだ。まずは仕事というものを経験してから、職業を選ぼうと考えた。生稲氏は1年間アルバイトをさせてほしいと親に頼みこみ、コンビニエンスストアの夜勤のアルバイトを始めた。

料理の世界の扉を開く

生稲氏はアルバイトをしながら、時間さえあれば就職情報誌を広げ、やりたいことをひたすら探し続けた。 「でも結局、分かんなくて。思考を切り替えて『何がやりたいか』ではなく『何ならできるか』と考えてみたんです。そのとき思い浮かんだのが料理。そういえば料理するのは好きだなって」 それならまずは料理の世界を見てみようと、今度は洋食屋で働き始める。冷凍食品など出来合いのものを使う店だった。2年ほど働くと、もっと本格的に料理を学べる店に行きたいと思うようになる。このときタイミング良く、料理人になっていた高校の同級生のつてで、都心にあるイタリア料理店で働けることになった。ここから、料理人としてのキャリアが始まる。

大学時代について語る生稲氏

「くだもの楽園」代表 生稲洋平 氏

「都会よりも“こっち”の方がぜいたくじゃないか」山形で見つけた“本当の豊かさ”

中学から大学までバレーボール街道を進んできた生稲氏。ハードな大学時代を経て、引退。やりたいことを必死に探す中、料理が好きなことを思い出し、料理人としての道を歩み始めた。

「自分は食材のことを何も知らない」料理人として壁にぶつかる

入った店は、青山や六本木など、都心に数店舗を経営するイタリア料理店。生稲氏は、きらびやかな街のきらびやかな店で料理人としてのキャリアをスタートさせた。 系列の店も回り、さまざまな現場を経験しながら修業を積み、調理の技術が付いてきた頃、生稲氏は食材に興味を持ち始める。食材をもっと生かすには、どうすればいいだろう? いろいろやってみるが、分からない。 「そのとき気付いたんです。僕はそもそも、目の前にある野菜や果物がどこから来たのか、どんなふうに育てられたのか、何も知らないということに。知らないまま発注し、使うことに違和感を覚え始めました」

山形県の内陸部にある河北町。「ここは四季がはっきりしていて、春夏秋冬の自然の景色は何度見ても飽きない」と生稲氏

その頃、生稲氏は28歳で結婚。妻の両親にあいさつをするため、山形県河北町にある妻の実家を訪ねた。 河北町は、寒暖差の大きい気候条件を生かし、果樹・野菜の栽培が盛んな地域。サクランボやラ・フランスは全国有数の生産量を誇る。妻の実家も農業を営んでおり、生稲氏は畑を見せてもらった。それまで畑を見たことがほとんどなかった生稲氏は、木に実る果物や畑で育つ野菜たちを間近に見、新鮮な感動を覚えた。

収穫間近のリンゴ

どんな高級店も出せない“ぜいたくなすき焼き”

その晩、妻の両親が振る舞ってくれたすき焼きが、生稲氏の心を大きく動かすことになる。肉は精肉店で買ったものだが、最上級の山形牛。卵は実家で飼っている烏骨鶏の生みたて、野菜は裏の畑で採れた春菊やネギと、食材はどれもこれも、この土地で育まれたものばかり。東京の高級店でも滅多に食べることができない、ぜいたくなすき焼きだった。

東京のレストランでは、生稲氏はそれこそ毎日のようにフォアグラやキャビアといった高級食材を扱っていたが、食材はどれも遠くから運ばれてくるものだった。それがここでは、とびきりおいしい新鮮な食材が、身近にこんなにも豊富にある。

「それまで僕はずっと、東京が一番だと思ってたんです。高級品でも何でもあるしって。でもそのとき、本当にぜいたくなのは“こっち”じゃないかと思いました。金銭的、物質的な豊かさではなく、命の根源的な豊かさというのか。都会では感じたことのない、本当の豊かさをこの場所に感じたんです」

以来、生稲氏は山形をたびたび訪ねるようになる。行くたびに食材への興味が膨らみ、すぐそこの畑で採れたものが食卓に上る田舎の暮らし、食材の宝庫のような山形にも惹かれていった。

「山形に通ううちに、自分の場所は、実は東京よりも“こっち”なんじゃないか。そう思うようになりました」

都会で料理人を続けていく中で引っかかっていたものが取れ、心を固めるまでに時間はかからなかった。生稲氏は行動に出る。

料理人から農家に転身。東京から山形へ

「農業を継がせてください、とご両親に言いました。ほとんど直観とノリで決めたことです。それまで高校も大学も直観とノリで決めてきて、後悔したことはなかったから、迷いはありませんでした」 仰天したのは妻だ。実家に後継者はいなかったが、両親から継いでほしいと言われたことは一度もない。しかも夫は都会育ちの田舎嫌い。これからも夫婦ともに東京で仕事を続けるものと思っていたのだ。状況を把握しきれない妻に、生稲氏は「東京に残りたければ残ってもいい。自分は先に山形へ行く」と告げ、移住の準備を始めた。

料理人時代について語る生稲氏

料理人が嫌いになったわけではない。イタリア料理が大好きなのも変わらない。料理の世界で得た人脈、経験は必ず次に生かすつもりだった。

「いずれ、自分が生産したものがレストランのメニューに載ったら、すげー面白いな。それで、たくさんの人においしいって喜んでもらえたら最高だな。そう思ったのを、今もよく覚えています」

生稲氏は約6年間にわたる料理人のキャリアにピリオドを打ち、家族で山形へ移住。2006年、28歳の時だった。

「くだもの楽園」代表 生稲洋平 氏

ここでしか、自分にしかできない農業で勝負する

料理人から農家に転身し、東京から山形県河北町に移り住んだ生稲氏。彼は今、最上川のほとりに広がる農園「くだもの楽園」を経営し、農家としての夢と目標を実現すべく奔走している。生稲氏が山形で就農してからの15年間の道のり、そして目指す未来とは?

自分が作った野菜が一流レストランのメニューに!

2006年に山形へ移り住んだ生稲氏は、県内の果樹農家で1年間研修を受けた後、妻の実家の農園に就農。そこからは妻の両親に教わりながら農業を学んでいった。方言が聞き取れず説明を理解できなかったり、地域の人間関係の濃さに抵抗を感じたりと、新しい環境に戸惑うこともあったが、青年会の活動などを通して少しずつ地域に溶け込み、周りの人たちに助けられながら農家としての経験を積んでいった。 農家になって4年ほどたった頃、河北町で一つのプロジェクトが立ち上がる。国産イタリア野菜にニーズがあると見込んだ商工会の掛け声で、北イタリアと気候が類似する河北町でイタリア野菜を栽培し、特産品として売り出していこうと、商工会、行政、農家を挙げた取り組みがスタートしたのだ。

「くだもの楽園」の横を流れる最上川

まず4軒の農家が参加し、さっそくイタリア野菜を栽培。ところが、イタリア野菜を見たことも食べたこともないメンバーは、どうやって使うのか見当が付かない。そこで、イタリア料理の経験がある生稲氏に声が掛かった。生稲氏は収穫したイタリア野菜でイタリア料理を作り、メンバーに食べてもらうことで、イタリア野菜がどのように使われ、どんなおいしさがあるのかを伝えた。

産直マルシェに出荷される「かほくイタリア野菜」

2013年には「企業組合かほくイタリア野菜研究会」として法人化し、本格的に販売を開始。栽培に試行錯誤しながらも売り上げを順調に伸ばしていく。現在は17軒の農家が60品目を栽培し、レストラン県内80店舗、県外約100店舗と直接取引するほか、県内外のデパートなど小売店にも卸すまでになった。取引先には、山形の「アル・ケッチァーノ」、東京の「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」など有名店も名を連ねる。生稲氏はメンバーの一員としてイタリア野菜を栽培するだけでなく、研究会の副理事として「かほくイタリア野菜」の普及拡大に取り組んでいる。

「奥田政行シェフ(「アル・ケッチァーノ」オーナシェフ)や落合務シェフ(「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」オーナーシェフ)といえば、料理人時代の僕にとって雲の上の人。それが今、2人ともこの畑まで野菜を見に来てくれるんですよ。農家になってからの方がイタリアン業界とのつながりが深まった。不思議なもんですね(笑)」 イタリア料理の経験が生かされるだけでなく、「自分が作ったものが、レストランのメニューに載ったら」という夢まで早々にかなってしまった。 「われながら、話が出来過ぎだなって思います」

「かほくイタリア野菜」のロゴ

農業の面白さ、厳しさを体験したその先に

夢は一つかなえたが、全てが順風満帆だったわけではない。生稲氏にとって農業は、やればやるほど面白く、また、やればやるほどに大変さを思い知らされるものだった。 「農業の何が難しいって、稼ぎ方。作物を育てている間はお金が一切入らなくて、現金が入るのは、収穫したのを売ったときだけ。作ったものをどこに販売して、いかに生活できるだけの売り上げを出すか。そこまでできないと、農家としてやっていくのは難しい。野菜や果物を作るのが好きというだけではダメなんです」

リンゴの色付きを確認する生稲氏

近年の異常気象も農業に追い打ちを掛ける。2020年7月、東北地方を襲った記録的豪雨で全ての農機具とイチゴハウスが浸水被害に遭い、その年の冬は豪雪、この春は遅霜で果樹が大きな打撃を受けた。 「ここ数年、もう毎年こんな調子です。地元の人たちも経験したことのない自然災害が立て続けに起きて、収穫量が激減している」 それでも妻と両親と4人で頑張ってきたが、3年前、高齢で体が利かなくなってきた両親が現場を引退。主力2人がいなくなり、その分を生稲氏が一人でカバーしなければならなくなった。

農業の現状について話す生稲氏

「うちは3月末からイチゴの収穫が始まって、6月にサクランボ、次に桃、秋は稲刈り、リンゴと続いて、雪が降るまでにりんごジュースの加工を終わらせる、というのが年間のルーティーン。合間にイタリア野菜も作ります。両親がいたから回せていたのが、妻と2人になってからは、やれ、サクランボの収穫だ、箱詰めだ、雪が降るまでにリンゴをもぎあげなくちゃと、朝から晩まで走り回って、今をこなすのに精一杯。農家レストランをやりたいとか夢はまだまだたくさんあるのに、新しいことをやる余裕なんて全くなかった。今は体力も気力もあるからいいけど、これを毎年やったら、早晩くたばるなって」

りんごジュースなどの加工品も手掛ける

そして生稲氏が最も深刻視するのは、町内の農業従事者が激減していることだ。「くだもの楽園」がある集落でも、農家を継ぐのは4人だけ。このままいけば、町はどこもかしこも耕作放棄地となり、周辺環境は荒れ、害虫や鳥獣害の増加などさまざまな弊害が生じる。

「つまり、うちだけが頑張ればいいという話じゃないんですね。じゃあどうするか。農業をやりたい人を増やすには、今、農家をやってる自分たちが、あるべき農家の見本を見せていかなくちゃいけない。『きつい、儲からない、ハイリスク』な農家ではなく、持続可能な農家にしていかないと。そう強く思うようになりました」

農家になって10数年。農業の面白さも厳しさも身をもって体験してきた。この先、現状維持でつないでいく道もある。しかし生稲氏は、あえて「攻めの農業」に打って出た。

目指すは「サラリーマンより高収入。
サラリーマンより自由」な農家

生稲氏が今、力を入れるのは事業拡大だ。自然災害リスクが高まる今、気候に左右される第一次産業だけに頼る経営は危うい。今後は畑をベースに、加工や飲食など新たな事業を展開し、経営の安定化を図ろうと考えている。海外進出にも本腰を入れるべく、2020年からは香港への出荷も開始した。仕事のやり方も変えようと、スタッフ2人を常時雇用し、現場は彼らにどんどん引き継いでいる。おかげで体力と時間の余裕が生まれ、先のことを考える時間ができた。

「これまでは『僕にしかできない』と勝手に思いこんで、人に任せることができなかったんです。でも現場は僕でなくてもできるし、規模を拡大しようとすれば、自分一人では回らない。常時雇用するのはかなりのプレッシャーだけど(笑)、みんながいてくれるおかげで、できることが広がるのを今すごく感じています」 農家になってからずっと温めてきた夢も、いよいよ着手する。 「畑そのものをレストランにしたいんですよ。この畑で採れたナスやバジルやトマトをその場で料理して、この自然の中で食べてもらう。都会では絶対にできないこと、ここでしかできないことをとことん追求していきたい。できることはまだまだ、たくさんある。農業って実は、ものすごく可能性がある産業だと思います」

生稲氏手製の石窯。畑で採れたてのリンゴや桃でピザを焼く。産直フェアに持ち込むことも。

目標は、農家を「サラリーマンよりも高収入、サラリーマンよりも自由」な職種にすること。やり方次第で実現可能だと、生稲氏は考えている。 かつては都会っ子を気取っていたという生稲氏。気付けば「田舎で農業」にどっぷりはまっている今の自分を「結果オーライ」と笑う。 「農家が天職かどうかは分かんないですけどね。でも最近、気付いたんです。僕は学生時代、天職は探せば見つかるものだと思っていたけど、何が天職かは、死ぬまで分からないものなんだなと。自分で今やっていることが天職だと思えたら素晴らしいけれど、そうでなくても、目の前のことに楽しさを見出して、まずは一生懸命やってみる。そうすれば自ずと道は開けるんじゃないかって思います」

「くだもの楽園」の畑とゲストハウス

大変なときも、道に迷ったときも、目の前のことに一生懸命向き合っていたら今の場所にたどりついていた。大学バレー部の経験、料理人、農家としてのキャリア。その全てを総動員し、生稲氏は「ここでしか」「自分にしか」できない農業を実現すべく、今も目の前のことに一生懸命だ。

生稲洋平(いくいね・ようへい)

1979年生まれ。神奈川県出身。2001年文理学部社会学科卒。
本学卒業後、イタリア料理のシェフとして都内のレストランに勤務。2006年より山形に移住し、妻の実家の農園に就農。現在は「くだもの楽園」を経営し、果物やイタリア野菜、米、果物加工品などを生産販売するほか、「企業組合かほくイタリア野菜研究会」の副理事長を務める。