
宮崎市にある海野氏が手掛けた事務所内にて
『木』を中心に据えたビジネス
生まれ育った宮崎県日向市で父の建設会社を継いだ海野洋光氏。海野建設株式会社は注文住宅建設、公共事業の他に、さまざまな木材製品を生み出し、全国から高い注目を集めている。前編では宮崎県の杉を周知させるためのアイデアから多くの才能と出会い、木材の可能性を広げるまでの海野氏の歩みを見ていこう。
宮崎の杉
杉の生産量日本一の県をご存知の方はいるだろうか?
2020年、2位の秋田県の1.76倍、3位の大分県には倍以上の差をつけ、宮崎県が30年連続で生産量日本一となった。
宮崎県日向市にある海野建設が木材を中心としたビジネス展開を始めたのも26年ほど前のことだ。父から会社を受け継いだ海野洋光氏が社長に就任してから加速度を上げた。
多くの建設会社にとってビジネスの両輪となるのは、注文住宅建設と公共事業にある。しかし、その両輪だけで経営を成り立たせるのは年々難しくなり、特に地方にとっては死活問題になり得ると海野氏は考えた。
そこで注目したのが『建築』と『土木』という二つの単語に、『木』の文字が共通して使われているという点だ。
「簡単に言えば『建築=注文住宅』、『土木=公共事業』になります。素材である『木』を中心にした製品の開発を行えば、社員も機材も有効活用できますし、建設会社として生き残れるのではないかと思ったのです」
この考えに至った海野氏は、日向市にある「日向木の芽会」という木材のグループに入る。そしてしばらくして阪神・淡路大震災が起きた。
1995年1月17日。兵庫県淡路島北部沖の明石海峡を震源として、マグニチュード7.3の地震が発生。震源地から近い神戸市では至る所で火災が起き、家屋だけでなくビルや高速道路が倒壊、液状化現象も起こるなど、連日の報道では目を覆いたくなる光景が映し出されていた。 国内のみならず世界に衝撃を与えた大災害は6,434人の尊い命を奪い、日本人の防災意識を根底から覆すこととなる。 阪神・淡路大震災から間もなくして、ある大手建設会社がCM放送を開始する。多くの木造建築が倒壊する中、被害を免れた家がある。それを見た海野氏は目を疑ったという。

日向木の芽会について語る海野氏
「その建設会社の建てたツーバイフォー工法の家はこの地震にも耐えて残っているとPRするCMでした。被災者は大きな傷を負ったままの時期でしたし、内容的に道理としてひどいなと僕は感じました」
家を作る工法は二つある。ツーバイフォー工法は床や壁などの面で建物を支える面構造で、在来工法は柱や梁、筋交いなどを使用した日本古来の工法であり、端的には大工が建てる家のことを指す。
このCMは各方面で大きな反響を呼んだ。そして木材を扱う会社関係者は「もう商売ができない」という危機感を持つことになる。
当然宮崎県も例外ではなく、日向木の芽会は対抗策として在来工法をPRするためのCMを制作した。大手広告代理店が製作したCMに太刀打ちするのは難しいと海野氏はこの手段に異を唱えたが、彼の意見は無視されてしまう。
結果的に数年にわたってこのCMは流されることになるのだが、期待した成果を上げることはできなかった。
消費者との距離
日向木の芽会で地道な活動を続け、ようやく周囲の人間が海野氏の意見に聞く耳を持つようになったのは、阪神・淡路大震災から7年ほど経ったときだ。まず海野氏が着手したのは宮崎県の杉を全国にPRすることだった。
当時から杉の生産量日本一というのは宮崎県の誇りだった。宮崎県民は当然全国的に周知の事実であると考えていたが、建築系の雑誌編集者ですら知る者はいないのが実情だった。そこで、海野氏は宮崎の杉を使用したデザインコンペ『杉コレクション』を企画する。
審査委員長に建築家の内藤廣氏を招き、グランプリを獲得した作品を宮崎県木材青壮年会連合会が実物大に製作するというコンペで、第一回グランプリ作品「ナミキの椅子(狩野新氏)」は現在でも日向市駅舎に置かれている。
杉コレクションは2004年から2013年まで計10回開催され、日本国内のみならず、海外からも応募があるなど、いつしか若手デザイナーの登竜門となった。そしてこの独創的なコンペから輪は広がり、新たに「日本全国スギダラケ倶楽部」が発足されることになる。
「スギダラ(日本全国スギダラケ倶楽部)はインターネット上でメンバーを募集し、現在の会員数は3,000人ほどです。ここでは、日本全国の杉を見るツアーなどのイベントを行い、宮崎の杉について発信をしています」
杉コレクションで、木材とデザインを融合させたことで、木材生産者と消費者との距離は近づいた。これはCM制作当初に考えていた在来工法のPR以上の成果を生んだと言えるだろう。そして現在では全国各地にスギダラのような活動をする会があるという。
杉がもたらした出会い
杉コレクションとスギダラの成功はいくつかの大きな変化を生む。その一つは法律で、現在の公共事業には木材の使用が義務付けられている。
そして海野氏にとってうれしい変化は、建築家やデザイナーが積極的に木材を使用し、使用方法を産地に確認するようになったことだ。
「杉には秋田、吉野、四国など、いろいろな産地があり、その土地によって特徴があります。ですから使用方法を産地に確認することは必要なことであると僕は考えていますし、その後は誤った管理や使用方法で木材をダメにされることは格段に少なくなりました」
ダメになるというのは、木が腐るということだ。
有機物である木材は水に濡れれば当然腐敗する。もちろん各企業は知恵を絞り、加工をするが、それでも腐敗を防ぐことは難しく、この問題は木材を扱う者にとって長年悩みの種であった。しかし、海野氏はこの難問を見事にクリアしてみせた。

弥良来杉で作られたJR宮崎駅前通りのウッドデッキ
四国にミロク製作所という猟銃を製造する会社があり、その猟銃メーカーの技術は濡れても腐らないことを知った。海野氏はその技術を応用し、腐らない杉、「弥良来杉(ミラクル杉)」の商品化に成功したのだ。
「現在はミロクという社名になり、この技術は弥良来杉にのみ使用されています。ミロクさんのおかげで他の産地との差別化に成功し、現在では全国各地に出荷される商品になりました。弥良来杉はデザインと杉の可能性を大きく飛躍させたのです」
その後も海野氏は新しい杉製品の開発に取り組み、さまざまな業界から注目を集めるのだが、それについては後編で紹介をする。
次回、中編では海野氏の学生時代にフォーカスしよう。
建築を志すまでの道のり

宮崎市にあるスクエアパネル工法で建てた事務所前にて
杉製品を開発・販売している海野建設。代表取締役・海野洋光氏のアイデアは全国に波及し、木材の利用価値には大きな可能性があることを証明してみせた。そんな海野氏は社長になるまでにどのような人生を歩んだのだろうか? 学生時代を中心に振り返っていただいた。
幼稚園~高校
宮崎県日向市に生まれた海野洋光氏。両親が共働きをしていたため、3歳で幼稚園に通うことになる。驚くべきことに、当時歩いて1人で通っていた。時代がそうさせたのか、海野氏だからなせる業なのか、それは本人にも分からない。
小学校では特に目立つこともない少年だったが、一度だけ大きな注目を浴びることがあった。 夏休みの宿題で木材や段ボールなどを駆使して戦車を作るのだが、それが人の乗れる特大サイズだというのだから驚きだ。学校には建設会社で使用している2tトラックで運搬し、特別に体育館で展示をしてもらった。 「始めたら楽しくなってしまって、夢中で作っていたので、学校へ運ぶ方法などを考えずに大きくなりすぎてしまったのです。建設会社の息子でよかったですよ(笑)」

小学校時代に作った戦車について語る海野氏
中学の頃から将来は建築の仕事をしたいと考えるようになり、工業高校を第一志望にした。もちろん大学進学を見据えていたが、当時工業高校から大学へ行く者は皆無で、担任からは普通科の高校に進むよう強く勧められた。それでも自分の意思を通し、工業高校へ進学した。
高校入学初日「大学へ行きたい人は?」と先生から問われ、手を挙げたのは海野氏だけだった。しかし2年後、大学進学を希望したのは20人に増えていた。これは海野氏が周囲に与える影響力を物語るエピソードの一つと言えるだろう。
そして1982年、本学工学部へ進むことになる。
日本大学新聞社
入学してすぐに日本大学新聞社に勧誘され、試験を受けて見事合格を果たす。
それまでジャーナリズムに興味を持ったことはなかったが、中学・高校と柔道部に所属していたことで、大学では「アカデミックなことに挑戦する」と決めていた。そういう意味で日本大学新聞社はうってつけだった。
「日本大学新聞社で、それまでに出会ったことがない人たちに触れ、毎日が新鮮でした。法学部の新聞学科の学生が主でしたが、彼らの考え方や意見は僕が思いつかないことばかりでした」

日大新聞社時代の海野さん(右から2人目)
日本大学新聞社での刺激的な日々を過ごし、ジャーナリストを志すようになった頃、大韓航空機撃墜事件が起こった。
1983年9月1日。アメリカから韓国へ向かう大韓航空機がソビエト連邦の領空を侵犯したとして、ソ連戦闘機に撃墜された。乗客269人全員が死亡。その中には日本人も含まれていた。
大韓航空が東京・八重洲にあるホテルに遺族を集めるという情報をキャッチした日本大学新聞社は2人を派遣。その1人に海野氏が選ばれた。
「僕はカメラ担当で、先輩が話を聞いていました。息子さんを亡くした父親に話を聞いたのですが、その息子さんは僕と同じ歳で、しかも撃墜された日が誕生日だったそうです。途中からいたたまれなくなり、泣きながらシャッターを切っていました」
後日、取材について反省会を行い、カメラアングルの悪さについて指摘を受けた。シャッターを押すのが精一杯で、父親の後頭部が映し出されたいくつもの写真が、そこには広げられていたのだ。そのときにジャーナリストを仕事にすることはできないと悟ったという。
「この仕事はどんなときでも冷静に対応する必要があると痛感したのです。でも被害者の父親の頭しか撮影できなかった僕にはそんなことはできない。そのときに世の中で困っている人を建築で助けたいと強く感じました。極論かもしれませんが、僕にとっての人生の分岐点となる出来事でした」
日本大学新聞社には結局4年間在籍した。向いていないと分かっていても、新聞社の雰囲気と友人たちから離れることができない、かけがえのない存在だったのだ。
さまざまな経験を経て故郷へ
工学部では4年時に谷川正己教授の研究室に入る。谷川教授はアメリカの建築家であるフランク・ロイド・ライト研究の第一人者だった。 「僕はよく神保町で建築史の古本をあさっていたので、谷川先生の下で近代建築について学びたいと考えたのです。日大新聞でも谷川先生を取り上げることがあり、僕が記事を書きました。そのせいか、ゼミの面接で『お前だけには来てほしくなかった』と言われましたね(笑)。谷川ゼミでの学びは、僕のその後の人生に大きく影響を与えました」

ザンビア工科大学時代の現場見学
卒業後は青年海外協力隊としてザンビア工科大学建設学部の専任講師を務めた。過去に日本大学新聞社の先輩が書いた青年海外協力隊の記事を読んだことが、志望するきっかけとなった。 ザンビアでは建築製図の講義、途上国向けのローコスト住宅の開発、アフリカの伝統的建築調査などを行った。現地の「マッシュルームハウス」と呼ばれる、かやぶき屋根の建築を学べたことはその後の仕事に大きく役立つことになる。また、依頼されて教科書も作成するなど、ザンビアで充実した2年間を過ごした。 任期を終え、帰国した海野氏は大阪の工務店で6年間修行する。 そして故郷の日向市へ戻ったのは1994年、阪神・淡路大震災の前年のことだ。

海野氏が企画・編集した教科書
建築で人を助ける

スクエアパネルについて語る海野氏
海野洋光氏が開発した中で特筆すべき製品が『スクエアパネル』だ。多くの被災地の助けとなるスクエアパネルは各方面から注目を集め、さまざまな賞を獲得している。仮設住宅が抱える問題を解決するスクエアパネルの効能とそれに込めた想い、そして海野氏の今後について語ってもらった。
仮設住宅
『人の生命と財産を守る建物が建築である』
建築に携わる者にとっての常識を東日本大震災で起きた津波が奪い去った。木造、鉄筋に関係なく建築が守ることができないという事実を知った海野氏は大きなショックを受け、ただむなしさを感じることしかできなかった。
さらに仮設住宅での話を耳にし、彼の心の中には靄がかかった。
東日本大震災だけでなく、災害が起こった際に建てられる仮設住宅の多くはローコストで工期が短い。避難所での生活を余儀なくされる人々にとって、この2点は重要な要素であり、仮設住宅への入居決定は、その時点では朗報と言えるだろう。
しかし鉄板のみで造られた家だ。壁は薄く、夏は暑く、冬は寒い、湿気がこもりやすいなど、不快感を伴う生活が被災者を待っている。
仮設住宅の設置は2年までと法律で定められている(東日本大震災の仮設住宅は特例で2年以上が認められている)。快適ではない家に住む期間としては短くはないが、それでも仮設住宅以外に選択肢がない人々がいるのが現実だ。 「仮設住宅というのは居住性や住環境というものを全く考えていないのです。しかもお金がなくて他に移るのが困難でも2年で更地にされてしまう。さらに取り壊された後の資材は産業廃棄物として捨てられる。いろいろな問題があるにもかかわらず、それを全て無視して建てられることに、僕はどうしても納得がいかなかったんです」

スクエアパネル工法で造られた事務所内。建築確認済証や検査済証も取得可能
災害に遭い、困難に直面した人々が仮設住宅に住むことによってさらなる問題を抱えるという理不尽さ、彼らに対する配慮の欠如を海野氏は見過ごすことができなかった。そしてその想いがスクエアパネル工法を開発させることになる。
スクエアパネル工法
海野氏が考案したスクエアパネルは、物流に用いられるパレット(薄い板状の台)と同じ規格サイズの建設資材だ。『簡単』『格安』『快適』『環境』『強固』の五つをコンセプトに、仮設住宅に求められる機能を保ったまま内在する全ての問題を解決した。 スクエアパネル工法の最大の特徴はインパクトドライバーのみで施工が可能という点にあり、大工ならば1人でも家を建てることができる。実際に九州で豪雨災害に遭った地域では2人の大工が約2カ月で家を完成させた。 パネルの中には断熱材を入れており、熱さ、寒さ、騒音に悩まされることなく快適に過ごすことができる。役目を終えたら、物流パレットとして使用可能なため、ゴミになることがない。 「日本の建築基準法に則った建築確認済証や検査済証も取得可能なので、災害避難住宅として建てれば、仮設住宅の2年という法律に縛られません。もし被災者が引っ越すことになれば、村営住宅、町営住宅として使用することが可能です。通常の家と同じですから30~50年は快適に暮らせますよ」 スクエアパネルが造れるものは家だけではない。イス、テーブル、ベッド、物置、塀など、さまざまな物に姿を変えることができるのも強みだ。

スクエアパネル工法について語る海野氏
あるイベント会社からはブースやステージとして利用したいと申し出があった。催事のないときには、ショッピングセンター内の倉庫で保管しているそうだ。そして仮に災害が起きた場合には、即席の避難所をスクエアパネルで造る意向だという。 「建設資材はどうしてもかさばってしまいますが、スクエアパネルはコンパクトで運搬や保管に困りません。普段使いもでき、用途もさまざまですから、全国の市町村やショッピングセンターに置いてもらえれば、災害時にスピーディーな対応が可能になります」 スクエアパネル工法は各方面から注目を集め、「にっぽんの宝物 JAPANグランプリ」「ウッドデザイン賞」「みたかビジネスプランコンテスト」「ちば起業家ビジネスプラン・コンペティション」「九州地方発明表彰」で受賞を果たした。

令和3年度九州地方発明表彰式での海野氏
そしてさらなる普及を目指し、海野氏は防災イベントやワークショップを開催している。幅広い年齢層に対してインパクトドライバーの使い方、組み立て方などを伝えることが、災害時の力になると考えているからだ。

災害時に備え、子供にインパクトドライバーの使い方を教える
父の背中から学んだビジネス
海野氏が海野建設の社長に就任し、木を中心にした製品の開発を志してから22年という時が過ぎた。
これまでに開発したのは『弥良来杉』や『スクエアパネル工法』だけではない。
ホームページでのみ注文が可能な『鳥居専門店』では、木製鳥居の製作を行っている。
実は鳥居は宗教を超え、神道、仏教、米軍基地などさまざまな場所に存在する。神様の数だけ鳥居はあると言われ、海野建設では現在64種の製作が可能だ。
鳥居に興味を持ったのは日本大学新聞社在籍時のことで、神保町での古本屋巡りで知識を深めたことが役立った。
また、北海道大と共同研究した『組立和室』は、高度な技術を必要とせず、誰もが短時間で設置できる和室だ。
「北大と組んだのは北と南で杉を双方が送り合うことでその具合を知るという研究をするためです。双方の杉を送ることで運送システムを構築できましたし、研究段階から、販売システム、品質検証をすることができました」
この研究は株式会社内田洋行からの出資を受けた。その研究成果が15分で作ることができる『組立和室』で、2021年8月11日に三者で共同発表を行っている。

株式会社内田洋行新川本社1階に展示された「組立和室」
建築で人の役に立つと決意した大韓航空機撃墜事件から、その道を外れることなく進み続けた海野氏。ここまで建築に情熱を燃やし、さまざまなアイデアでいくつもの困難を打破できたのは父・巧氏の存在が大きい。
「父は大工で建設会社の社長でしたが、漁業、田んぼ、骨董品など、多くの副業をしていました。副業と言っていますが、全て一流レベルに達していますし、全ての仕事を楽しんでいましたね」
経理上、『弥良来杉』や『鳥居専門店』は兼業になる。巧氏は多くを語る人ではなく、海野氏に対し、直接指導することはあまりなかった。それでもその背中から学び、父をロールモデルとしてビジネスを展開したことが、海野氏の成功につながったのだ。
「今後もやりたいことはいろいろとありますが、大臣認定の取得やスクエアパネルでは僕には浮かばないアイデア、例えば防災以外でも利用することが可能だと考えています。何か思いついた方には連絡をしてもらいたいですし、研究をしたいという方がいたらお問い合わせいただきたいです」
スクエアパネル工法は海野建設が特許を持つが、それはビジネス的な視点で考えたのではない。構造としては単純なため、コンプライアンスの管理と他人に特許を取得され、海野氏が利用できなくなることを防ぐためだ。
建築で人を助ける、この想いが海野氏の中から消えることはなく、彼の意志を引き継ぐ者たちによって、きっと未来永劫続くことだろう。『木』を中心とした彼のビジネスから今後も目が離せない。
海野洋光(うみの・ひろみつ)
1963年4月21日生まれ。1986年工学部建築学科卒。宮崎県出身。
本学卒業後、青年海外協力隊としてザンビア工科大学建設学部専任講師。帰国後、6年間の工務店勤務、海野建設の専務取締役を経て代表取締役に就任。木材製品の開発に努め、弥良来杉、木製鳥居、スクエアパネル工法などで注目を集める。2014年軽トラ屋台でグッドデザイン賞と中小企業庁長官賞を受賞。建築・土木一級施工管理技士。