先の東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会で自転車競技(トラック、マウンテンバイク)会場となった日本サイクルスポーツセンター(自転車の国 サイクルスポーツセンター)。

室内会場で唯一の有観客で開催、スピード感を肌で感じることができた。同センターはアジアにおける自転車競技発展の拠点であり、日本のナショナルチームのトレーニング拠点でもある。

一般財団法人日本サイクルスポーツセンター(以降JCSC)に就職して初めて自転車競技に触れ、資格を取り若手の指導に当たるのが、競技振興部競技振興課の野田尚宏氏。指導したアジアの選手がメダリストに返り咲き、野田氏自身もセンターの役割も果たした。オリンピック・パラリンピックを終えた今、野田氏と拠点の関わりを前後編の2回にわたりお伝えする。

アジア発、世界と戦える選手育成拠点

オリンピックで唯一、室内で有観客開催の舞台となった伊豆ベロドローム。日本サイクルスポーツセンターにある、屋内型の自転車トラック競技施設である。ベロドロームのベロ(Velo)はフランス語で「自転車」、ドローム(drome)はラテン語で「競技場」を意味する。伊豆ベロドロームはまさに自転車競技の聖地、拠点だ。

2002年、スイスに本部を置くUCI(国際自転車競技連合)が、世界選手権及びワールドカップで活躍できる競技者の育成を目指すトレーニングセンターを世界五大陸に8カ所設置。目的は、ヨーロッパがダントツに強い自転車競技の世界規模の発展、例えば南米やアフリカなどフィジカルに富んでいても経済的に自転車競技をすることができない地域で、若者を集めて強化することだ。そのアジア担当が静岡県伊豆市にある日本サイクルスポーツセンターに設置されたコンチネンタル・サイクリング・センター・修善寺(以降CCC)である。

同時に、NTC(ナショナルトレーニングセンター)競技別強化拠点として日本の強化基地にもなっている。二つの顔を持つ。

1968年に日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)が東京・調布から伊豆に移転。
公営ギャンブルの競輪の売上を社会還元するために、国民が自転車に乗ることで健康になってもらう施設が作られた。それが日本サイクルスポーツセンター。1971年8月11日にオープンした。

転機、出会いと始まり

「父が高校の教員だった影響もあって、大学卒業後は教員になり、それまで続けてきたバレーボール部の顧問になる考えでした」 大学で中高の保健体育の教員免許を取得。長男ということもあり、上京して本学に進学したが地元・伊豆市に戻るつもりだった。 サイクルスポーツセンターに隣接する日本競輪学校にいた従兄が、センターの職員募集を教えてくれた。もともとスポーツ関係に就職したいという思いもあり、1996年に入職を決めた。 「入社当時は、いろんな部署を経験しました。最初は企画課で次が総務課。総務が長かったですね。遊園地もある園内では、繁忙期になると臨時でアルバイトを雇います。そのアルバイト募集の調整、給与計算の入力もやり、事務的なことが多かったです」

野田氏はベロドロームのある修善寺が地元だ

入社して5年が経った2001年10月に転機が訪れる。
前述のアジア拠点CCC設立のために自転車競技振興準備室が発足。競輪学校の副校長を務めた本学出身の加藤昭氏が自転車競技振興準備室に出向してきた。自転車指導のスペシャリストだった。
しかし、加藤氏の他に自転車競技経験者がおらず、立ち上げの労力を考えて野田氏が候補に挙がった。体育学科出身で、大学でバレーボールに打ち込んでいたこともあり指名された。

「タフさ、興味がありそうだというのが買われたと思います。一番のハードワークでしたが痩せず、反対に太りました」。
現在は70kgの体重も一時は95kgまでになった。

「ちょっとやそっとのことがあっても大学の4年間があったから大丈夫。若かったですから」と笑って振り返る。

アジアの普及拠点としての役割で年間2回、毎日午前午後のトレーニングが2週間続く、右も左も分からないため、加藤氏に付いて日中はトレーニング拠点として行うべき競技指導のノウハウを教わり、総務の仕事を夜にこなした。正式スタートするまでの半年は準備期間で、総務の仕事も兼務していた。

かくして2002年4月1日から自転車競技振興室がスタート。大会の受け入れや、合宿の受け入れ、自転車競技の普及振興を今までずっと務めている。

指導の根本にある師の言葉

「お前は自転車競技者上がりじゃないからこそ、見える部分がある。広い視野と違った角度で見られるのはアドバンテージになるから、それを絶対に忘れるなよ」 加藤昭氏に言われた。今の指導の根本になっている。 「大学4年時は所属していたバレーボール部で、学生コーチとして下級生の指導もしていました。体育学科で教員を目指していたので、指導することには興味がありました」 本人にやる気にさせる“内発的動機付け”が大事だと考えている。 「学生時代は無理やり引っ張るという考え方もありましたが、いかに内発的にモチベーションを上げさせられるか。声掛け一つ、タイミングも。技量を見極められる目を持たないといけない。勉強し続けないと選手に失礼だと感じています」 選手が全力を出していないと見えたら、本気で注意する。熱意を見せてそれだけでは旧時代のやり方になってしまうため、数字で見せるなどデータを使いながら可視化して伝える。

トレーニングが始まるときは、目的を必ず伝えている。「なぜやるか」「やってどうだったか」、フィードバックもしっかりする。
ダッシュを10本するにも、アベレージの力でやっていては成長がない。出力が段々と落ちてくるのは分かっているから、1本目から全力でいくように指導している。

このような指導の根本、信条が功を奏し、かつて五輪でメダルを獲得したものの、結果から遠ざかっていた選手が、今回の東京五輪で再びメダルを獲得した。

後編ではメダルへと導いたセンター役割、野田氏の視点をお伝えする。

ヨーロッパに偏っている自転車競技の実力差の均衡を崩し、アジアから世界大会で活躍できる選手、コーチの発掘・育成が目標の日本サイクルスポーツセンター(JCSC)(自転車の国 サイクルスポーツセンター)。

東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会では、指導に携わった選手がトラック競技でメダルを獲得した。さらなる発展を目指すための競技の普及に向けた取り組みや、オリ・パラに携わって感じたことについて、日本サイクルスポーツセンター競技振興部競技振興課の野田尚宏氏に聞いた。

他競技者の自転車適正

自転車競技の普及を図るため、自転車競技と他競技との関連性にも目を向ける。昨年、県立伊東商業高で行ったのは、男子バレーボール部員22人の、跳躍動作の速度計測。バレーボールのジャンプ能力は自転車のペダリングの動きと近く、自身の能力や自転車競技への適性を数字で示した。 さまざまな切り口から、「まずは自転車の良さを知ってもらいたい」という思いがある。 日本競輪選手養成所の校長で元競輪選手の滝澤正光氏も、野田氏と同じくバレーボール出身。バレーボールに限らず、バスケットボール、スピードスケート、陸上などいろいろな競技から活躍できるという。

体育学科で学んだ知見を生かし、身体の仕組みやデータ分析からも競技を見ている

トレーニングを他競技にも応用

他競技から引き入れるだけではない。
クロストレーニングといい、ほかのスポーツ競技者がフィジカルレベルを上げるために自転車を使ったトレーニングを盛り上げていきたいと考えている。男子バレーボールVリーグ・東レアローズは、毎週決まった曜日にコンチネンタル・サイクリング・センター・修善寺(CCC)を訪れ、12回ほどトレーニングをした。そこから2年後には優勝。結果が出た。

当時、東レアローズでトレーナーを担当していた岡野憲一氏(文理学部体育学科卒)は、フェンシングの太田雄貴氏やカヌースラロームの羽根田卓也氏なども指導していたトレーナーで、自転車トレーニングをやりたいと話を持ってきた。後で分かったが、よくよく聞くと学科の1つ下の後輩だった。

「他競技の選手からすると、やったことをないことをやるので全力を出してトレーニングをするという効果があります」

トラックの周長が短い伊豆ベロドロームは、1周250m。コーナーが最大傾斜45度と立っていてそれに耐えられる上半身の筋力が必要になるため、体幹のトレーニングになる。

自転車競技をもっと身近に

自転車競技に携わるようになり、コーチ資格だけではなく、健康運動指導士も取得した。健康運動指導士は、医学的な分野にも踏み込む。生活習慣病の仕組みや予防に果たす運動の役割など、勉強になることが多かった。日本サイクルスポーツセンターの目的は、「自転車を使って国民が健康になる」ことだ。

そのため、アスリートのトレーニングだけではなく、一般の人にどう使ってもらったらよいのかという視点も大事にしている。健康運動指導士の知識を生かし、自転車を使った健康プログラムを思い描いている。

「オリ・パラが開かれたことによって、レガシーという意味でもマイナーな自転車競技を日本の国内でメジャーにするのが、サイクルスポーツセンターの職員としてのミッション。自転車競技の裾野を広げる上でも、『健康につながる自転車』という切り口はもっと推し進めていきたいと考えています」

オリンピックとパラリンピックの光明

東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会には、会場所有者のスタッフとして関わった。競技を見られるわけではなかったが、施設を一番よく知っている担当者として待機。

室内競技では唯一、観客を入れることができた。
「自転車競技は、観客に生で見てもらった方がいい競技。パラリンピックは無観客に対応が変わり残念でした」

自転車競技は日本ではまだまだマイナー競技だという野田氏。どうにか生で見て迫力を感じてほしかった。
国際団体のUCI会長の出席するミーティングに参加した際、感謝の言葉を聞いた。
「他のスポーツは無観客開催がほとんどの中、自転車の発展のためにもなった」

オリ・パラの熱を冷まさず、さらに盛り上げていくために何をすべきか。バレーボールの世界から飛び込んだ自転車界への挑戦は、この先も続いていく。

返り咲きをもたらしたサポート

低迷していた日本短距離ナショナルチームはブノワ・ベトゥヘッドコーチ(フランス)、ジェイソン・ニブレットコーチ(オーストラリア)の下、脇本雄太選手、新田祐大選手など日本人選手が世界選手権で3連続銀メダルを獲得し、世界からマークされる存在になった。 以前は決まった時期に合宿をして解散することを繰り返していたが、ブノワHCはベロドロームに通えるところに住まない選手はナショナルチームに入れないと言った。 毎日JCSCでトレーニングするようになり、結果が出てくるようになった。 自転車競技の女子選手として史上初のメダル獲得を果たした梶原悠未選手の中距離チームもJCSCで練習を積み、拠点のサポートでメダルにつながった。

女子スプリントで銅メダルを獲得した香港チャイナの李慧詩選手は、「CCCの成果」であり、野田氏の教え子といえる一人である。
若い時から心技体の基礎を重視し、土台作りに力を入れた。それが将来のパフォーマンスを上げることにつながるからだ。
インターバルトレーニングを中心に、短い間隔で軽いギアをなるべく速く多く回せるようにする。2週間のうち前半はポテンシャルを伸ばす「キャパシティ期」、次にパワー出力系のトレーニングをして、最後、タイムトライアルで記録はどうかを見る。
李選手は17歳だった2004年から8回指導した。まだ指導を始めた頃に見た選手の一人だった。
李選手はつらさのあまり「辛苦極」と当時の練習日記に綴ったという。
ロンドン大会以来3大会ぶりのメダル獲得は、CCCがアジア拠点としての役割が結実したメダルだったといえる。

野田氏は職員として何ができるかを考える。

「日本人は島国の特徴か、海外の試合でおとなしくなってしまう。競技レベルが同じでもパフォーマンスで劣ってしまうので、アジア拠点で共同生活とトレーニングという経験を積んでもらいたい」

そのためには労を惜しまない考えだ。
「微々たるものでもお手伝いしたい。ナショナルチームの選手はオリンピック・パラリンピックでメダルを取る、という強い目標がある。拠点の担当としては、選手に可能な限り施設を有効に使ってもらい結果を出してほしい」と願っている。

野田尚宏(のだなおひろ)

1973年静岡県生まれ。静岡県立韮山高等学校から本学へ進み、1996年文理学部体育学科卒。
本学卒業後、一般財団法人日本サイクルスポーツセンターに就職。国際自転車競技連合(UCI)公認のアジア拠点であるコンチネンタル・サイクリング・センター・修善寺のコーチとして、アジアの若い自転車競技者やコーチの育成に従事。
ASOIF(オリンピック夏季大会競技団体連合)Coach Educator Course 修了、日本スポーツ協会コーチ4(自転車競技)、日本トレーニング指導者協会公認トレーニング指導者、健康運動指導士、温泉利用指導者。